語学学校への朝
朝目覚めると、いきおいよくベッドから飛び出した。さあ、新しいスタートだ!今日から語学学校が始まる。身支度を整え、急いでアパートを後にした。表の通りに出ると、地下鉄の目印“M”(Metropolitanaの頭文字)の看板を目指し、その脇にある地下へと続く薄暗い階段を下りた。
地下1階に降りると、改札口と切符の自動販売機が見える。少し離れた場所にはバールと、雑誌や新聞を店の前いっぱいに広げた売店がある。僕は切符の自動販売機があまり信用できなかったので、多くの人がそうしているように、売店で切符を買い求めることにした。ピンク色の“Gazzetta
dello Sport”(スポーツ新聞)紙のCalcio(サッカー)の見出し写真を横目で見ながら切符を買い求め、人が流れていく方向へと進んだ。
改札機で切符に打刻し、ロータリー式のゲートを押しながら前に進む。ミラノには地下鉄の線が3本あり、Linea
Rossa、(赤線) Linea Verde (緑線)Linea Gialla(黄線)それぞれの線が色で区別されている。
階段の脇には色分けされた路線図が貼り付けてありとてもわかりやすい。僕はLinea VerdeとLinea
Rossoが交わる駅、“Loreto”の位置を確認し、ホームのある地下2階を目指し、更に階段を下りた。
朝の8時ということもあり、ホームには仕事や学校へ向かう人達がたくさんいた。皆、けだるそうで、人の多さにうんざりしているような顔をしている。
ホームは薄暗く、埃っぽい。人が少なくなる夜のこの駅を想像すると気味が悪かった。電光掲示板に表示されている待ち時間を見ていると、トンネルの向こう側からものすごく大きなゴーっという音と共に列車がやってきた。その車体はスプレーで吹き付けた落書きで埋めつくされていた。アメリカ映画で見たような美しいグラフィックではなく、とても醜いものだった。
僕はイタリア人の落書きセンスに少しがっかりしながら、人がぎゅうぎゅう詰めの車内にもぐりこんだ。列車は日本の鉄道ではまず考えられないような、荒々しい加速、減速を繰り返す。そのたびに、人の塊は前後左右に揺れた。Loreto駅に到着すると、Linea
VerdeからLinea Rossaに乗り換え、目的地のLima駅で地下鉄を降りた。
世界の広さをイタリアで知る
地上に出ると、そこがCorso Buenos Ires(ブエノスアイレス大通り)だった。朝の通りはまだ人影がまばらで交通量も少なく、大きなビルやアパートが遠くまで続く様子がよく見えた。ブティックやデパート、バールやレストラン、靴の専門店にビデオショップまである。クラシックな外観の建物にモダンな店舗が入っている。上部の壁面には、日本でもおなじみのジーンズメーカーや洋服のブランドの巨大なポスターが貼り付けられている。古いものに最新のものを組み合わせる、そのコントラスがとても新鮮に見えた。周りの景色を眺めながら目的地である43番地のプレートを探した。
あった、ここだ! 3メートル以上もあろうかという高さの、大きな木の扉は内側に開かれていて、緑の生い茂った中庭の通路が奥のほうまで続いている。白い壁と大理石の床のエントランスをくぐり中に入る。外の通りからは想像できないぐらい静かで、まるで隠れ家のような雰囲気だな。先ほどの薄暗くて、嫌な通勤ラッシュの感触がまだ体に残っていたが、少しずつ落ち着きを取り戻した。そのまま突き当たりのほうに進んでいくと、そこには、今まで見たこともないくらい、たくさんの人種が集まっている。受付の前は数十人はいるであろう学生たちでにぎわっていた。
僕と同じように、今日の入学日にあわせて世界中から集まってきた人達だ。見たところ年齢は20代が中心だが、中には50代と思われる人までいる。白い肌に黒い肌、ブルーの瞳にブラウンの瞳。背の高さや手足の長さ、髪の色、髭の生え方や体つき。多種多様な人種が世界各国からやってきていた。はからずもイタリアで、僕は世界の広さを知る。
その様子に圧倒され、少し戸惑ってしまう。それから受付で入学許可証を提出し、黄色い筆記テスト用紙をもらった。そして促されるまま地下の自習室へと向かう。そこは広い空間で、白い机と、色とりどりの椅子がたくさん置いてあり、黄色いテスト用紙に熱心に取り組む学生でいっぱいだった。ゆっくりと周りの様子を伺うと日本人もかなりいる。なあんだ、たくさんいるじゃないか。僕はイタリアに誰一人として知り合いがいなかったので、少しほっとしたが、この時までイタリア人の中で、ぽつんと一人で生活していく自分を想像していたので、なんだか少し拍子抜けしてしまった。
空いている席を探し椅子に腰掛け、テスト用紙に向かった。当然ながら、問題の説明文までもがイタリア語である。最初は熱心に問題を理解しようと取り組んだが、あまりよく理解できなかったので、適当に書き込みをしてから、用紙を提出した。その後、イタリア人教師による簡単な会話の面接を受けた。僕は知っている限りのイタリア語を駆使し、懸命に質問に答えていた。
僕だけの隠しポケット
一通りのテストが終わる頃には、新しく入学した学生全員が集まり、この学校の規則や授業の内容の説明を受けることになっていた。テストや受付はきっちりと時間で区切られていたわけではなかったが、気がついてみるときちんと自習室に人が集まっていた。廊下や中庭、階段の踊り場に座り込みテスト用紙とにらめっこしている人は、もう一人としていなかった。
みんな落ち着きがなくざわざわしている。説明を一つ一つ聞くたびに大きく叫ぶ人、質問をする人がいる。説明をする女性教師はあわてず、明るく冗談を交えながら質問に答え、説明を続けていた。
入学式のプログラムが終わったあと、15人ぐらいの学生と先ほどの教師と共に、学校の近くにあるPizzeria(ピザや軽食が食べられるレストラン)にいった。時間は昼の2時ぐらいだった。はじめに教師が、いきおいよくワインを注文したのに驚いた。この教師は午後からも授業をしなければならないといっているが、全く悪びれた様子がない。それよりこの時間を楽しもうと、とても楽しそうだ。これこそ僕の想像していたイタリアだ!そう思うと嬉しくなって、すかさずそれに続いた。
テーブルにはワインボトルが並べられ、いい匂いのする皿が次々と運ばれた。食事はとても楽しかった。ヨーロッパや中東から来ている人。それに韓国人や日本人もいた。カタコトのイタリア語と英語、それぞれの母国語でこれからの学校生活のことを、少し酔いながら面白おかしく話した。僕は昨日起こった出来事や、最近熱心に読んでいる旅行ガイドブックのスリや盗難の対策についての記事のことを皆に質問した。
イタリアにはスリが多く、現金を取り出すところをいつも狙っていると人から聞いたり、本に書いてあるのをよく読むけれど、現金を持ち歩くときはどうしているの?僕はガイドブックで紹介されている、洋服の内側に取り付ける、隠しポケットに現金や貴重品を入れてるけど。でも、現金を取り出すたびに不便な思いをしているんだ。
イタリアに来る前に通信販売で買い求めた隠しポケットをズボンの内側から引っ張り出し、それを広げてみんなに見せた。
そのとたん、大爆笑となった。いろんな国の笑い声が僕を取り巻いた。こんなことをするのは日本人だけ? それも僕だけなのか? イタリア人教師も笑いながら、普段通り、よそよそしくしないのが一番いいと忠告してくれた。
食事も終わり、最後に支払いをする時、皆はポケットやバッグから財布を取り出して、それぞれ注文した金額を計算していた。僕はこっそりと靴の中敷の下に隠してあった、10,000リラ札を取り出し、気づかれないようにシワシワになった紙幣を丁寧にテーブルの下で伸ばしていた。まだまだツーリストのようで、ミラノに馴染めていない僕だったけど、こうやっていろんな人たちと交わることによって、少しずつイタリアがその扉を開いてくれているような、そんな気がして嬉しかった。
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