初めてのデート
スウェーデンからの留学生、クリスティーナと一緒にスタジアムにいた。“クリスティーナ”はイタリアでの愛称で、本名はクリスティンという。試合は前半からミランのペースだった。周りの観客が興奮して立ち上がるたび、隣の席の彼女も一緒に飛びはねる。背番号7番のシェフチェンコ(Andriy
Shevchenko : アンドリー・シェフチェンコ)がゴールを決めると、クリスティーナは今日、語学学校のレッスンで習った覚えたての言葉、「インクレディービレ!」(incredibile
信じられない)を、まるでイタリア人のように連呼していた。
選手やチームのことなどあまり知らないけれど、噂に聞いていたセリエA(serie
A :世界でも有数のスター選手が揃うイタリアサッカーリーグ)の雰囲気を味わえることがよほど嬉しいらしく、何度もポケットの中に入れてある携帯電話を取り出して、スウェーデンの友人にメールを送るの、と自慢げに微笑んだ。
イタリアに来て、初デートの僕は、その日朝からそわそわしていた。アパートの部屋にいてもあまり落ち着かないので、早めに待ち合わせの場所へ出かけた。ドゥオモ大聖堂の大きな扉の前で、ひたすら彼女が来るのを待っていた時、初級クラスで先月一緒にレッスンを受けていた韓国人の連中が偶然通りかかった。
「何をやっているんだ?」
「これからサンシーロ・スタジアムでMilan対Romaの試合を観るんだよ。クラスメイトのスウェーデン人の女の子と行くんだ」
そう答えると彼らはうらやましそうに大騒ぎをした。そして試合よりも、スウェーデン人の女の子のことのほうが気になるらしく、彼らも自分たちの用事をそっちのけで、クリスティーナを待った。
約束の時間になっても彼女が来ない。なぁんだ、来ないじゃないかよ。という雰囲気が彼らからただよってきた。
それから20分ぐらい経っただろうか、彼女が待ち合わせの場所にやってきた。彼女のかわいらしさにまだ一緒に待っていた韓国人たちは驚いた。僕は鼻高々に彼らに「Ciao!」と言って、彼女と地下鉄の階段を下りていった。
スタジアムで、チケットに記載されている観客席を見つけるのは骨の折れる作業だった。各チェックポイントでチケットを見せ、場所を確認してもらい、らせん状のスロープの中心を通っている階段を何段も上った。自分たちの席を見つけた頃、スタジアムはほぼ満員といった状況だった。僕らはミラン側の応援席へコーラを片手に座った。
ゴールの裏の観客席はティフォシ(Tifosi・熱狂的なサポーター)達の特等席で、Milanの圧倒的
リードの試合内容が面白くないRomaのサポーターは、ネットをよじ登ったり、観客席の脇を固める機動隊に物を投げつけていた。彼らによって赤や黄色の発煙筒がたかれ、その合間に爆竹、いや、ダイナマイトの爆音が鳴り響いた。歓声や応援歌も混じり、スタジアムは揺れた。
僕はクリスティーナが楽しんでいるのかどうか、それが気になって何度も彼女の横顔を盗み見ていた。フィールドに真っ直ぐに向けられた彼女の青い瞳が、キラキラと輝いていた。
クリスティーナとの出会い
クリスティーナを知ったのは、語学学校の会話レッスンの時間だった。彼女はとても明るく、チャーミングでクラスの人気者だ。自由奔放に発言し、思ったように行動する。自分自身をストレートに表現する性格の彼女を、僕は羨ましく思った。何よりも魅力的だったのは、彼女の鮮やかで透き通るような青色の目だった。
退屈な文法の説明にうんざりしながら、週末は何をして過ごそうかと思案している時だった。クリスティーナは床においてあったリュックサックを手に取り、なにやら中のナイロン袋をごそごそと探り始めた。なんと、袋の中から取り出したのはヨーグルトと銀色のスプーンだった。机の上に置き、まるで朝起きて歯を磨くように自然に、ヨーグルトを食べ始めた。おいおい、授業中にヨーグルトかよ……。
ところが、そのことに気づいた教師も特別驚いた様子もなく、「おいしい?」とたずねるだけだ。彼女もニコッと微笑んでそのままヨーグルトを口にして、授業を続けて聞いていた。
イタリアでの授業は、日本と比べると、ずいぶん様子が違っている。特別に許可を得ることもなく、自由気ままに教室を出て行く生徒がいる。用が済めば何事もなかったかのように戻ってきて自分の席に座る。机の上に足を投げ出したり、鞄の中に入れてある青いりんごを出し、かじりながらレッスンを受ける、なんていう光景も珍しくない。なかにはニンジンをかじるなんてヤツまでいた。
教室の中には白い化粧板の長いテーブルが四方に並べられていて、ひとつのテーブルに椅子が4つ置いてある。一番前の真ん中は教師の席で、あとは生徒が好きな場所に座って授業を受けることができる。気がつけばいつもクリスティーナが横に座っていた。毎日隣り合わせの席で授業を受ける僕たちは徐々に話をするようになった。
同じクラスでレッスンを受け1週間が経った頃、クリスティーナは授業の合間の休憩時間になると廊下にいる僕を探し、外の空気を吸いに表に出ようと声をかけるようになっていた。廊下は禁煙になっているわけではないけれど、階段を降り、建物を出て玄関の扉の脇の壁にもたれながらタバコをふかし、お互いの夢を話し合った。クリスティーナはデザインを学ぶためにスウェーデンからミラノに来ていた。子供用絵本の、挿絵をデザインしたいという。語学をマスターして、早くイラストの勉強に専念したいと何度も語っていた。
ある日、クリスティーナが突然切り出した。
「今度の週末のサッカーの試合は何かしら?」
「Milan対Romaだったと思うよ」と僕は答えた。
「連れて行ってくれる?」
僕はドキッとした。これってデートしようってこと? 僕は平静を装って、精一杯素っ気無く答えた。
「じゃあ……、行こうか」
小さな秘密
試合が終わり僕らはドゥオモ広場に戻るための電車に乗った。広場に到着したとき、時計の針は11時30分を指していた。
深夜でも営業しているピッツェリア(Pizzeria)に行こうと誘ってみたが、クリスティーナは「高くつくから、安いハンバーガーを食べて、そのあとビールを飲みに行きたい」と言った。特に裕福でもないけど、世界の中では豊かな日本人の僕と、スウェーデンの普通の家庭で育った彼女とでは、それぞれの国の経済力の強弱を背景にして、金銭感覚も違っていた。僕にとってピザなんて安いものでも、彼女にとっては違うのだ。彼女の言葉を聞き、改めてそのことを実感した。
マクドナルドの店の前のガードレールにもたれながら、2人で街灯に照らされたドゥオモ大聖堂を眺めハンバーガーをかじった。その後、約束通りビールを飲むため、ガラスのアーケードのついたガレリア(Galleria)通りにあるバール(Bar)に入った。
メニューを見ると、ビールが1杯20,000リラ(当時、日本円で1400円ぐらい)もする。観光地の表通りでしかも深夜だから仕方がないか…と思っていると、クリスティーナが大げさとも思えるほど、僕の何倍も驚いていた。彼女に気を使わせないように、次はご馳走してもらうから今日は僕が奢るよと言って、僕は何とかその夜のサッカーの話題へと話をすり替えた。
向かい合って座りビールを飲んで、彼女は切れ目なく話し続けた。今日はすごく興奮したと。そのあいだ中、僕は今までこんなに近くで見たことのない、透き通っている彼女の青い目を、不思議な気持で見ていた。
時間が気になり、ウェイターに尋ねると12時15分を過ぎていた。もう行かないと最終電車に乗り遅れてしまう。慌てて代金を支払い、駅のホームへ猛スピードで走った。
お互いに帰る方向が違うので改札口のところで別れようとすると、クリスティーナはいったん立ち止まり、顔を近づけ、映画でしか見たことがない、左右の頬と頬をあてるキスの挨拶をしてきた。あまりに急な彼女の別れの挨拶にボーっとしていると、「スウェーデンはもう1回なの」と、もう一度右の頬を寄せてきた。
なんか甘酸っぱい気持になった。小走りにホームに向かう彼女の後姿を見送りながら、彼女の柔らかな頬の感触が残る自分の頬に手をあててみた。その時、深夜の薄暗い改札口が、僕には不思議と明るく見えた。クラスメイトへの小さな秘密ができた夜だった。