第9回 ランチア・イプシロンがやってきた!(2) |
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結局、僕が買うと決めたクルマにもかかわらず、この件で主導権を握ったのはロベルトさんだった。それでもとにかくクルマは買えた。もう最後は面倒くさくなってしまって、すべてロベルトさんに任せることにした。
そして、いよいよ5月12日、午前10時過ぎ。トリノのサンカルロ広場でイプシロンとご対面となった。今か今かと待っていると、広場の南側から1台のイプシロンがやってくるのが見えた。サイドウインドウ越しに見覚えのある横顔。ロベルトさんだ。彼も僕を見つけて、ニコニコ笑いながら手を振っている。雨上がりの空からは薄日が射し、それが新車のイプシロンをさらに輝かせていた。
とうとう、イプシロンがやって来た。 |
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濃いグレーのメタリックでお互い歩み寄ったボディカラーは、想像していたよりもはるかにダークで、それがちょっと残念だったけど、まあそんなことはよしとしよう。内装がグレーとブルーのファブリックなのも外板色からするとどうかと思うけど、まあ、これもいいや。そんなことを反芻しながら意味もなくイプシロンのまわりを2、3周してみる。ちょっと湿り気のある微かな風の中に、新車の匂いが香り立っていた。
それから、ロベルトさんによるコクピット・ドリルがあって、そんなことはもうぜ〜んぶ知ってるよ、ということについて、約20分間の講義を受けなければならなかった。それでもひとつひとつ真剣に説明するロベルトさんはとても幸せそうで、僕はその横顔を時折盗み見しながら、いちいち大袈裟に頷いてみせた。
「パワーウィンドウを降ろすときはスイッチをこう。上げるときはこう」とロベルトさんが言うと、「降ろすときはこうで、上げるときはこう、ですね」と僕も実際にスイッチに触れながら根気強く繰り返した。やれやれ、なことだけど、知らないふりをすることが、人生のいくつかの場面でもっとも誠実かつ品格ある態度であることを、僕も人生のいくつかの場面で学んできた。話はそれるが、僕がいちばん尊敬するのは、他人の話をかみ締めるように聞き、想像力の極北で生きようとする人だ。そういう人のなかにこそ、優しい、と形容できるなにものかがあると思うから。 |
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広場の前のバールでロベルトさんとエスプレッソを飲んで、その日はそこで別れた。渡されたイプシロンのキーを握り締めて、いそいそとドライバーズシートに向かった。
感慨と言っていいのかどうかわからないけど、この時はほんとうに嬉しかったなあ。クルマを買ったという即物的な喜びというよりは、随分時間はかかったけれど、自分の足でここまで歩いてこられたことに、なんかじんわりとくるものが確かにあった。
それが日本でだってとても安く買えることを知らずに、ブラーゴの1/18のミニカーを4台も機内持込荷物にくくりつけて持って帰ってきた6年前。ミニカー音痴とはいえ、あまりにもお粗末な僕の原初的なその「輸入」を第1歩とすれば、同じ仕事のためにイタリアで自分のクルマを買うなんて、100億光年も遥か彼方に進んだ出来事のようだ。
『イタリア自動車雑貨店』を支持してくださった人々が、ときに退きそうになる僕の背中をいつも押してくれていたのだと思う。
さてさて、いよいよエンジンをかけてみた。ああ、静か、というのがファースト・インプレッションだ。あのY10に比べればanother
world、another planetである。
ゆっくりとギアを1速に入れて、クラッチを繋ぐ。そろそろと走り出す。僕はイプシロンをサンカルロ広場の北側の道路からポー川の方角に向けて走らせた。 |
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石畳の道でピョンピョン跳ねるように感じる。つまり、乗り心地が全体的に硬い。エレガントなスタイルからすると、イプシロンのこの乗り味はちょっと意外な感じがした。もしかしたらこれは、新車時固有の足回りの馴染み不足からくるものなのかもしれないが、ヨーロッパの石畳を走るとはっきり言って苦痛を伴うレベルだ。
イタリア人が新車をどう扱っていくのか、それを聞くのは忘れてしまったが、僕は基本的に慣らし運転なんてものは絶対にしないので、このイプシロンも例外なく最初からエンジンをブンブン回した。速い! といっても相対的に速いのだが、以前のY10よりはるかに軽快にエンジンは回る。それにしても跳ねるなあ。特に後輪がピョンピョン跳ねる。頭の片隅ではそんなことを意識しながらも、お店の立ち並ぶ通りでは必ずショーウィンドウに映るイプシロンに目をやったり、エアコンのスイッチをオンにしたりオフにしたり、ミラーをジージー動かしたり、新しいクルマを手に入れるといつもそうしてきたようなことを、この時もなぞるように繰り返していた。
明日は早速アウトストラーダを使ってモデナまで行く。往復約700km。今までちょっと気が重かった長距離の移動も、これでずいぶん楽になるだろう。
あれやこれや考えたり手を動かしたり、そんなふうに小一時間ほど市内を走って、それから一旦ホテルに戻った。クルマをガレージに預け、おなじみのバール2軒を続けざまに訪ねた。「クルマを買った」と、ただそれを言いたいがために、それぞれの店でエスプレッソを飲んだ。もちろん、ホテルのフロントでもそれを言った。そしてどこでも同じように訊かれた。「どんなクルマ?」。
「ランチア・イプシロン」
「ベッラ!」
ニコッとちょっとだけ笑って、ほんとは「ニコッ」よりもずっと大きな喜びを見せないようにした。なんかあまりにも単純な自分。その日一日、行く先々で「クルマを買った」と言って回る自分に自らあきれながら、そんなふうにその日は暮れていった。 |