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第10回 何かが違う、かもしれない。



 春とともに持ち上がったイタリアでの新車購入騒動も一段落して、今この原稿を猛暑が続く東京で書いている。イプシロンをかの地に置いて帰ってきて、もう2ヶ月が過ぎてしまったことになる。
イタリアでのイプシロンについて、今回はもう少し詳細に書こうとパソコンに向かってみて、僕はちょっと困惑している。つまり、記憶に残っていることがあまり多くないのだ。それはイプシロンが凡庸にすぎて、特筆すべきことが全然ない、なんてことではもちろんないのだけれど、今、このとき、暑さでボーッとした僕の頭の中には、エンリコ・フミア作のフォトジェニックなイプシロンの艶姿も、言葉に昇華されるべきフィアット・エンジンの息遣いも、何も浮かんでこない。
それはなぜ?
その答えが見出せないまま、きっとイタリアも暑いんだろうなあ、なんて考えたりしてしまう。きょうは東京、気温35℃だって。室内にいるとはいえ、正常に物事を考える環境とはとっても言えない。7時間の時差の向こう側で、今ようやく夜が明ける僕の好きなトリノの、なかでも特に気に入っている『9月20日通 り』(Via 20Settembre)にも、ゆらゆらと陽炎が立ち昇っているのだろうか。意味もなくそんなことに思いを巡らせて、過ぎてゆく時間をいたずらに弄んでいる。
イプシロンについて何か書かなくては。そうだね、何か書かなきゃいけない。それも乗り心地だ、加速だ、なんてことじゃなくて、胸の内の奥の方にかすかに引っかかっていること、それを引っ張り出しておかなければならないだろう。

☆☆

  数年前、イタリアで初めてイプシロンを見たときの鮮烈な印象を、今でもはっきりと思い出すことができる。イプシロンは「素敵」という美しい日本語こそが相応しいステキなクルマだった。
そのクルマに乗る人の、その背後にある砂を噛むような非劇的な日常を想起させない、言ってみれば生活臭のない都会的なクルマ、イプシロンはそんなクルマに見えた。スタイリングが饒舌に自らを語る、イタリアン・デザインの真骨頂、そのクルマ版である。
イタリア人がクルマを評価するとき、基準になるのはまずスタイリングの良し悪しで、そしてそれこそがすべてだ。イプシロンはそのイタリアの人々に、とても好意的に迎えられた久々のイタリア車だった。
フィアットに吸収されてからのランチア家は、経済的にはともかく、社会的には名門の没落というステレオタイプを忠実に歩んでいた。なかでも象徴的だったのは、ちょうどイプシロンのデビュー当時に、ランチア家内部で起こった肉親同士によるセンセーショナルな殺人事件。かつてのランチアというブランドを知る年配のイタリア人にとっては、その凋落ぶりを一層印象づけられる悲痛な事件だった。
だからなおのこと、ひとりのランチア・ファンとして、僕もイプシロンには声援を送った。フミアのデザインには彼自身によって理解されたランチアがみごとに現出されていたし、それは多くの人が心の内に潜ませていたランチアというイメージに、鮮やかな形と言葉を与えるものだと僕には思えた。
そして、期待にたがわずイプシロンは売れた。トリノを訪れるたびに路上にイプシロンが増殖してゆく。ニュー・チンクエチェントやセイチェントがどちらかというと不振をかこっていたのとは対照的だった。そして、そして、今年2000年、記念すべきミレニアムに僕自身もそのイプシロンのオーナーになった。
そのことの成り行きは、前回までに書いた通り。イプシロンはとてもいいクルマで、乗り心地が想像したより硬かったことを除けば、文句を付けるとこなどどこにもなかった。

☆☆☆

 違和感がある、と言えば、それは違和感なく乗れること、と言うとなんか逆説めくが、考えてみるとこの言葉のなかに、イプシロンが、もっと大きく括れば現在のイタリア車というものが、凝縮されているように思う。
それは基本設計が今を遡ること20年も前で、かつ今も現役のフィアット・パンダと比べてみればよくわかる。
パンダは乗りはじめの当初は違和感だらけのクルマだ。ドライバー自らがパンダに擦り寄っていかなければならない。しかし、それだからこそ、そこにはある種独特の、道具を使いこなしてゆく過程にも似た、「自動車生活」のようなものが生まれてくるのだ。いくつかある不自由さ、たとえば、非力なパワー、うるさいエンジン、狭い車内、他車と共通性のないスイッチ類の配置、等々、違和感の実相というのは慣れ、不慣れのレベルの問題でもあるのだが、パンダにあってイプシロンにないものは、その種の違和感よりもっと根源的な「匂い」なのだ。匂いとは、まさに直接鼻腔を刺激する匂いでもあるし、あるいはもっと情緒的、感覚的に捉えられる、そのクルマ全体が発するatmosphere(のようなもの)のことでもある。
  もし、イプシロンのシートに目隠しして座らされたら、それがイプシロンであると当てられるかどうか、僕には甚だ自信がない。イタリア車だとわかるだろうか。それも自信がない。
ほら、あの匂い、接着剤だかなんだかわからないけど、なんか機械ぽい匂いがイタリア車にはあったでしょ。ウーノに乗っても、ティーポに乗っても感じたあの匂いが、イプシロンからはきれいさっぱりと消えている。あの匂いに包まれて、心意気で乗る、みたいなイタリア車のカオスな世界が払拭されて、妙に整理されたインターナショナルな空間の存在を、僕はイプシロンに感じる。
それは間違いなく現代の工業製品の宿命だろうし、浅く広く受け入れられてゆくことは、これからの自動車(会社)にとってのmustであるに違いない。だが同時に、その製品の出自である、たとえばその国籍のある突出した部分などは、確実に削ぎ落とされてゆくだろう。
いろんな国があって、だからこそ世界。言葉も食べ物も着るものも、そういうものすべてをひっくるめた文化が違っていて、それだからこそ世界。岩波新書からと同じように、クルマからだって世界を学ぶことができる、と僕は思っているのだけれど。
チンクエチェントを生み、アルファロメオを育んだイタリアを、フェラーリに流れ星のような刹那と美しさを与えたイタリアを、僕らはおそらく論理的には説明できない何ものか、つまり、そこに漂う「匂い」のようなもので感じてきたはずなのだ。その意味ではパンダとフェラーリなんてそっくりだ。と断言しておこう。
フミア渾身の、すぐれてイタリア的なデザインをまとって登場したイプシロンは、国籍不明のオシャレな人が、イタリア製の洋服を着て歩いている、ように思えないでもないなあ。なんて言ったりしてると、1万キロ彼方の地下駐車場で僕を待つイプシロンが、虎視眈々、仕返しのプログラムを組んでいるような、そんな気がしてちょっぴり怖いけど。




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