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アンジェリカ。ちょっと暗い写りだけど、いつもとっても美しい。 |
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上からアンジェリカの声が聞こえる。チョコラータ飲みますか? ロベルトさんの会社の地下の作業場は、アンジェラおばさんがデパートの実演販売みたいな調子で鍵のかけ方を何度も僕に説明して帰っていったあと、日本に送る荷物の準備をしている僕だけが残っていた。うん、ありがとう、僕が上に行くから。
上の事務所に行くと、そこに残っているのもアンジェリカひとりだった。トイレに続く薄暗い通路の隅にあるチョコラータのマシンの方に、彼女はサッ、サッと歩いていき、やがてふたつのチョコラータを持って戻ってきた。
事務所と応接室を繋ぐ廊下のところでカップを受け取り、僕は壁に寄りかかってチョコラータをひと口飲んだ。雨が地に沁み込むように、疲れた身体にその甘さがゆっくりと沈んでいった。
10月からね、とアンジェリカが言った。10月からまた大学にいけることになったの。彼女は僕のはす向かいの位置で壁に寄りかかって、使い捨てのチョコラータのカップを両手で包みこんでいた。
なんだかはっきりしない理由で彼女が大学に行くのをやめたのは、もう半年以上前のことだった。夜、開講される週2回の授業は、昼間働いている人のためのもので、彼女はそこで英語を学んでいた。それを、ここの仕事とは全然関係ないし……、なんていう口先でつくりだしたような理由を言って、彼女はコンセントからプラグを引き抜くような感じ(に僕には思えた)で、あっさりと大学との繋がりを断ってしまったのだった。
あの時、本当のことをどこか他の場所に置いてきたような彼女の言葉を聞きながら、本当のことって、お金の問題? それとも、どう頑張っても最後は同じということ?
と口に出せなかった問いだけが、今この廊下から見える応接室の木製の椅子に、そこに座る僕の中にくすぶっていたのを覚えている。
ねえ、アンジェリカ、君は“ニュー・シネマ・パラダイス”を見たことがある? 唐突に僕は言った。
壁に寄りかかって口元のカップから目を上げて、アンジェリカはちょっと怪訝そうな表情を見せた。
いいえ、でも、その映画のことは知ってる。確か、今週、テレビでもやるはずだけど。
ふ〜ん、と言って、見るといいよ、と僕は付け加えた。老いた映写技師のアルフレードの言葉を思い出す。トト、シチリアを出て行け。そして二度と戻ってくるな。
それは生まれたようにしか生きられないイタリア社会の厳とした階級性と閉塞性の外に、君こそは勇気をもって踏み出してゆけ、という声に他ならなかった。アンジェリカ、君も踏み出せよ、君もそこから飛び出してゆけよ。
飲み終わったチョコラータのカップをアンジェリカに戻す時、金曜の夜『WASABI』という日本レストランに行こうと約束した。お祝いだから、と言うと、アンジェリカはニコっと笑って、オーケーと言った。
ロベルトさんの事務所を出て、イプシロンに乗ってホテルに向かった。ステアリングに手を置いたときに見つけた、ワイシャツの袖口の汚れをずっと気にかけながら、夕暮れのトリノを走る。あいかわらずの渋滞。2006年の冬季オリンピックを控えて、市内のあちこちが工事中なのだ。
あ〜あ、と大きなため息をついて、ヴィアレッジオで買ったモリコーネの“ニュー・シネマ・パラダイス”のサントラ盤をセットした。トリノで聴くモリコーネ。小学校の頃に毎日歩いた坂道が、あの大嫌いだった坂道が不意に浮かんでくる。いろんなことがあったよ。ただただそんなふうに、今は会うこともかなわなくなったあの頃の友達に、話してみたい。話してみたい、と思った。 |