イタリア自動車雑貨店
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第24回 MODENAの物語



 去っていった夏が、忘れ物を取りにひょっこり帰ってきたような日が、東京では9月の中旬になってもときたまある。北イタリアにも残暑はあるけれど、日本に比べれば秋の訪れは早い。この9月、明け方5時半にマラネッロに向ってトリノを出発した日には、ランチア・イプシロンの外気温度計は摂氏8度を示していた。アルプスからおりてくる風は、秋を追い抜いて、もう冬の匂いを運んできていた。

ガブリエッラ・コルトリンさん。時間のあるときはマラネッロにあるフェラーリ関連のお店の手伝いをする。
  こんな時間に出かけていかなければならない我が身の不運を呪いつつ、ギアを1速に入れた。街の中心部にあるホテルから、まだクルマの姿もまばらなイタリア統一大通りをまっすぐに南下して、アウトストラーダA21号線に入る。そこからは一路ピアチェンツァを目指して東進し、ピアチェンツァからはボローニャ方面へ。中田選手のいるパルマ、そしてチーズやプロシュートの畜産物で名高いレッジオ・エミリアを過ぎれば、マラネッロはもうすぐそこだ。トリノから約350km。1200ccのイプシロンを飛ばしに飛ばして、モデナ・スッドの出口まで約3時間で着く。

しかも、これだけの距離を移動して、高速料金は片道1600円ほど。ガソリンは確実に日本より高いけど、それでもトータルで考えれば、時間的にも経済的にも列車で移動するよりもはるかに得だ。実質的な意味をもってクルマを使えるという点において、ヨーロッパは日本よりはるかに先にいる。

それにしても……、と車中でずっと思っていた。クルマのこの傷みようはなんだろうか。

このイプシロンは約1年とちょっと前に新車で買った。そしてそれ以降、僕がイタリアにいないときは、知り合いのロベルトさんの娘のクリスティーナが日々使っているのだが、それが、走行距離約2万2000キロにならんとする現在、シートはタバコの灰と犬の毛、そしてこびり付いた泥で惨憺たる様相を呈し、ダッシュボードや内装のパネルには埃と引っ掻き傷、もちろんボディにもいたるところにぶつけたり、擦ったりした痕があるというありさまだ。

これは全部僕の不在中におけるクリスティーナの仕業だ。ことクルマに限らず、モノを大切に使うという観念が、彼女には決定的に欠如している。イプシロンの前のY10の時にウィンカーレバーが折れるということがあって、そのときにはまだ「クルマが古いから」程度に思っていたところもあったけど、今は違う。そのウィンカーレバーを含めて、こういうひどい状態は全部彼女の性格によるものだ、と断言できる。

経済的にも恵まれ、末っ子ゆえに享受できた万国共通の親の手厚い加護のもと、彼女は何不自由なく育った。25歳を過ぎても、大学でブラブラしていられる(ようにしか僕には思えない)のも、親の経済力あってのことだ。1枚の紙幣が、それが労働の対価として得られたものであるならば、ある意味それは苦しみや辛さの対価にほかならないということなんて、クリスティーナにはわかるまい。などと考えているだけで腹もたってくるのに、車内のあらゆるポケットに、ケースもなしに無造作に突っ込まれた夥しい数のCDのたてるカタカタとい音が、ことさら僕を苛々させるのだった。

ピアチェンツァの工業地帯を右に見て、そこからいくつかのちょっときつめのカーブを4速に落として走ってゆく。やがてA14号、ミラノ―ボローニャ線との分岐点にさしかかる。そちらに進路をとり、ボローニャ方面へ向う。まだ空はいくぶん暗いけど、あと30分もすれば、夜もすっかり明けるだろう。

モデナで午前9時半に人に会わなければならなかった。そのまえにどこかバールで朝食をすませ、なんてあれこれ考えはじめる。モデナでの仕事のあと、マラネッロに到着するのはきっとお昼前になってしまうだろう。そこから午後7時の最後の約束まで、予定だけがぎっしり詰まっていた。長い1日が始まるのだ。きょうはいいことがあればいいなあ、とイタリアにいると朝いつも思うように、その日もアウトストラーダの上でぼんやりとした期待をこの先の道に向けていた。

モデナ・スッドの出口から一般道に降りたところで、車内の携帯電話ホルダーから電話機だけがポロリと落ちてきた。よく見ると、ホルダーの底の部分が割れていた。クリスティーナ!と思わず叫びたくなる。やれやれな1日の始まりだった。

☆☆

 A car is a part of our life. 夫は私に繰り返しそう言った……。

今年62歳になるガブリエッラ・コルトリン(Gabriella Coltrin)さんは、天然木の大きなテーブルの向こう側で、所在なげに頬杖をついていた。ひっきりなしにマルボロ・ライトに手が伸びる。灯りを全部点けても日本人の僕には暗すぎる彼女の家のリビングルームの中で、僕は時折彼女の様子に目をやりながら、手渡された3冊のアルバムを見ていた。

Coltrinという姓はイタリア人のものではない。彼女の夫、ピーター・コルトリン(Peter Coltrin)は、かの高名なアメリカ人自動車写真家である。亡くなってからもう20年近くが経とうとしている。

1957年に――というガブリエッラさんの声でアルバムから目を上げた。

1957年に、ピーターはミッレ・ミリアに出場するためにイタリアにやってきたの。もちろん、そのときの彼のことは知らないけど……。彼はそれから自動車の写真家として独り立ちすることになって、レースの写真を撮りに頻繁にヨーロッパに来るようになってね……。

ガブリエッラさんのアルファロメオ2000GTV。いまでもとてもきれい。古いタイプのナンバープレート、マフラーから 漏れ出るガソリンの匂い。30年前のまま。
  部屋の壁面には夫のピーターさんが撮ったモノクロームの写真がびっしりと並んでいる。その中の1枚に、今年4月にテスト走行中に事故死したイタリア人レーシングドライバー、ミケーレ・アルボレートがいた。そして彼の隣りにはつい何時間か前に会ったばかりの知人のダリアさんの姿がある。どうして彼女が? なんだか不思議な気持になった。

ガブリエッラさん、と僕が訊いた。きょう、午後にダリアさんに会ったけど、彼女はアルボレートと知り合いだったの?

ガブリエッラさんは口元でちょっと笑った。そして、 ティレルにいた頃からの、と答えた。そうよ、あの頃からフェラーリに移るまでの彼には、表舞台に出ていこうとする男の華があったわねえ。

写真の中の若い若いアルボレートの姿は、彼の死を手短に伝えた新聞の活字よりもはるかにくっきりと、彼がもう既にこの世にいないことを教えていた。そんな僕の感慨を後押しするように、ガブリエッラさんの言葉が続いた。

アルボレートも、ピーターも、もういないのよ。ガブリエッラさんはそう言ってマルボロの煙を吐き出した。マラネッロでのその日最後の約束が、このガブリエッラさんに会うことだった。

彼女の家はマラネッロの中心街からアウトストラーダのモデナ・ノルドの入口に向かう途中にあって、1階は倉庫兼ガレージ、2階と3階が居室になっていた。それぞれの部屋にはほどよい程度にその存在を知らせる家具が置かれ、そのすべてがよく手入れされていることがひと目でわかるほどに、磨きこまれていた。

ガブリエッラさんの家に来るのは、これが2度目だった。今年の7月に知人に教えられ初めて訪れたときに、僕がデジタル・カメラを置き忘れていってしまい、今回はそのカメラが無事僕の手許に届いたことのお礼も兼ねて、再度彼女の家にやってきたのだった。

問わず語り、というのだろうか、その夜彼女は、僕が壁面の写真に注意を向けたのを見計らうように、夫のピーターさんのことを話し始めた。

ピーターと初めて会ったのはね――、1962年のことで、モデナのFINIホテルだったのよ。その日、大きなダンスパーティがあって、彼はそこにイタリア人の友達と来ていた。きっかけは忘れたけど、そのとき一緒に踊って……。

ふたりはそうして知り合った。ヨーロッパの自動車の世界に魅入られたアメリカ人のピーターと、「自動車になんてなんの興味もなかった」イタリア人のガブリエッラの恋。ふたりはそれから2年後、1964年に結婚することになる。ピーター31歳、ガブリエッラ25歳の春のことだ。

☆☆☆

 ピーターは頭が良くて、繊細で、私は私の人生でピーターほどの男に会ったことがない。ピーターが亡くなってから、私と結婚したいという男は何人もいたけれど、そんな話は全部断ったのよ。ここに(彼女は自分の胸に手を置いた)、今もピーターがいるから。

と話すガブリエッラさんは、今では結婚当時とは体型も変わってずいぶんと立派になり、声も声帯をいためてしまったかのようにしわがれている。言い寄ってきた男がたくさんいたと言われても、こちらとしては曖昧に頷くしかないけれど、それでも今なお夫のピーターさんの残影とともに生きているのはよくわかる。ガブリエッラさんは家のすべての部屋を案内してくれたけど、その中の3つの部屋には、ピーターさんが撮影した写真と一緒に、夫婦が愛した自動車にまつわる種種雑多な品々が、びっしりと収蔵されていた。

アルバムに目を通し終わってそれをテーブルの上に戻すと、僕の前にはファンタのオレンジとミネラルウォーターの大きなペットボトルが置かれた。どっちがいい?とガブリエッラさんは僕に訊いて、僕はミネラルウォーターを指差した。なぜだか彼女はちょっと残念そうな顔をした。

あのね、オレンジって言えばね、私は67年にピーターと一緒にアメリカに行って、カリフォルニアで3年間暮らしたのよ。その3年間、ピーターから教わったのは、英語とクルマ。英語はまあまあ話せるようになったけど、書くのはダメ。クルマは、ピーターの撮る写真がとてもロマンチックだから、なんだかどんどん好きになっていって。

イタリアに帰って来て1972年、ふたりのもとには新車のアルファロメオ2000GTVがやってきた。 思い出のクルマだという。このクルマでヨーロッパ中を、自動車写真家ピーター・コルトリンと一緒に走り回ったという。「私の人生の最良の時を彩ったクルマ」、とガブリエッラさんは言った。

1964年のピーター、ガブリエッラ、ふたりの結婚式。熱烈なキスの写真を含めて、ガブリエッラさんはこの写真のあるアルバムを いちばん見せたがった。
  私は9回も、9回よ、9回も流産して、だからこのクルマが私たちに残された子供のようなものね。そう言ってガブリエッラさんはしわがれた声で大笑いした。一緒に笑ってしまっていいのかどうか、僕はなんだか躊躇して、今もきれいに手入れされたアルファにただ目を向けていた。

運転席に座ってみなさい、とガブリエッラさんに促されて、僕はドアを開けてシートに腰を下ろした。細いステアリングリムに手を置いてみる。ああ、この匂いは知っている、と思った。目を閉じて乗り込んでも分かる、懐かしいイタリアの、アルファロメオの匂いがした。

ガブリエッラさん、僕はもう帰らなくちゃ。そう言って、頭の中で、これから帰るトリノまでの道のりを考えていた。夜中になるなあ、とちょっと気が重かった。ガブリエッラさんはオーケーと言って、次にイタリアに来た時には私が食事を作るから、今日は急なことで時間もなくて、ああ、クッキーがあったのにそれも忘れていた、イタリアの食べ物では何が好きなの?カメラは忘れてない?などなど、しわがれ声で次から次にいろんなことを口にしながら、2階のリビングからガレージにつながる階段のほうに足を向けた。

ガブリエッラさん、その前にトイレを、と言ってせっかちな彼女に待ってもらった。6畳ほどの広さの、淡いレンガ色のバスルームには、いろんな種類の石鹸やドライフラワーが賑やかに並べられていた。パウダーコーナーにはオレンジ、ホワイト、クリーム・イエロー、そしてグリーンの4色のタオルが、ピシッと端を揃えて螺旋状のタオルハンガーに美しく掛けられている。そのタオルの、整然として一切の乱れを許さないかのようなありようが、夫を亡くし独り生きるガブリエッラさんの中に張りつめているものや、そしてそれと背中合わせに彼女が引き受けなければならない深い孤独を伝えてくる。もう遅い、さあ、帰らなくちゃ。

イプシロンに乗って、来た時よりもずっと長く感じる帰りの道を、僕はトリノに向った。携帯電話が車載ホルダーからまた落ちてきて、瞬間、クリスティーナの顔が浮かんだ。やれやれ、と思う。やれやれ、と思うけれど、きっとあの憎き(?)クリスティーナにさえも、ガブリエッラさんに訪れたのと同じように、人生は訪れるのだ。そしてそれはたぶん、クルマを大切にするなんてことよりも、ちょっとは困難なことに違いない。クルマは替えられても、クリスティーナ、生きていくことは常に君とともにあるから。




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