知り合いのロベルトさんの会社から、MERRY CHRISTMAS&HAPPY NEW YEAR!のメールをもらった。走り回るサンタクロースの動画付のメールには、会社で働くみんなの直筆サインが入っていた。12月いっぱいで退職するアルドさん(第17回“ガイジンとして生きるイタリア”参照)の名前もあった。
アルドさんは55歳。これからは年金をもらって、あとは適当にアルバイト程度の仕事をして奥さんと娘さんの3人で暮らしていくという。55歳の人間に退職したほうがいいと思わせるイタリアの年金制度は、ちょっと複雑(というより、制度そのものが頻繁に変わる)なので詳しくは説明できないけど、アルドさんの場合は退職時の給与の70%程度が毎月無条件に支給される。だから、週2,3回アルバイト、それも収入を申告しないようにうまく働けば、会社に勤めていた時よりも高収入になるのだという。
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イタリア冬の風物詩、焼き栗屋。胸を張ってポーズの親父さんは、
少なくとも僕の知るこの6年間、同じ街角に立っている。 |
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もちろん、アルドさんもそれを狙っていて、「もうじゅうぶん働いたからゆっくりしたい」という言葉の裏側には、そんな現実的な計算もみてとれる。日本人だったら、どうだろうか。はたして、55歳で仕事からリタイアしたいと思う人間がどれだけいるだろうか。年金のようなかたちで、たとえ収入が保証されていようが、それでよしとはしないだろう。
つまり、自分の役割だったり、生きがいだったりを、仕事を通して見つけようと日本人の多くは考えるから、そしてそれを自分と社会との接点だと捉えているから、アルドさんのような選択をする人の方が少ないと思う。
むろんこれはアルドさんに限ったことではなく、小学校教師だったカッペリさんも、55歳であっさりと年金受給者の道を選んだ。こういう選択をどう思うかは、それこそ国民性というものなんだろうけど、僕にはいつまでも消化できない違和感のようなものが残る。
でも、イタリアっていうのは結局そういう不条理や非生産性や制度矛盾やデタラメな規則なんかを、ごった煮にして蓋をしているようなところがあって、蓋の隙間からのふきこぼれだけを雑巾でその都度ぬぐっているのだ。火力を弱めようとか、火を止めようとか、鍋の中身を整理しようとか、そんなふうにはなかなか思わないようだ。
妖艶なアルファロメオのスタイリングを鍋の蓋だと考えれば、トラブルに悩まされ続けた古いアルファのオーナーの方には、膝を打つことがいくつもあると思う。極めてドイツ的な“神は細部に宿る”というテーゼは、イタリア人にとっては、細部にこだわるあまり全体が凡庸としてしまう、偏執的なフェティシズムにほかならないから、そんなものは問題外の哲学なのである。
全体がシャキッとしていればそれがいちばん、全体が美しいモノや制度なら、内部の少々の歪みには目をつぶる。それが伝統的なイタリアの“WAY
OF THINKING”で、だからイタリアは、内的な均一性や整合性を求めるユーロ通貨圏の中で、きっといつまでも問題児としての資質を発揮し続けることだろう。
アルドさんの選択に正当性を与えるイタリアの制度も、その選択の主体であるイタリア人そのものも、やがてはどことなく全体主義的で、細部の神を信じてやまないドイツ人などに、やり玉に上げられるようになるのかもしれない。
ユーロの登場とは、そういうことだと、僕は思っている。 |