2月22日から24日まで、トリノで<AUTOMOTORETRO>というイベントが開催された。クルマやオートバイのイベントだけど、どちらかというとクラシックなものを対象としていて、もちろんパーツなども展示/即売されている。会場はフィアットの旧工場跡地リンゴットだ。
今年は、バリッラのクラブが一堂に会していたり、ランチアクラブの30周年特別展示があったりで、広い会場をブラブラ見て歩いているだけであっというまに1日が暮れてしまった。
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ミケロッティのスタンド。
右がエドガルド・ミケロッティ氏。寂し過ぎる。残念だ。 |
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その中で僕の目を惹いたのはミケロッティだった。かのジョバンニ・ミケロッティ率いたカロッツェリア・ミケロッティは今はもうないけれど、ジョバンニの息子エドガルドがミケロッティの名を冠した時計やサングラスなどを製造したり、過去のミケロッティデザインのクルマのミーティングなどを組織したりして、かろうじてその名を今も残している。<AUTOMOTORETRO>にもスタンドを出していたのだ。
そのスタンドが、なんていうんだろう、哀れというのか、寂れているというのか、黄昏のモニュメントのようだった。ミニカー屋のスタンドの隣りのほんのわずかなスペースに、ミニカーのボックスに押し寄せられるようにして、かたちばかりのミケロッティのスタンドがあった。こんなものは、昔のミケロッティを知る人間が見れば、目を覆いたくなるような光景だろう。ロベルトさんから、ミケロッティがどれほど才気煥発のデザイナーであったかを聞かされていた僕も、なんだか暗然とした気持になった。こんなことなら出てこなければいいのに。
その光景は過去の父親の名前につながる細い細い糸に、やる気なくぶら下がっているようにしか思えなかった。テーブルの上にはミーティングの時のアルバム(といっても写真屋がサービスでくれるようなペラペラなもの)と、現在の主力商品のリストウォッチが雑然と並べられているだけで、そのスタンドを訪れる人もほとんどいない。
ベルトーネやピニンファリーナがその命脈を今も確固として保っているのとは対照的に、ミケロッティはほんとうに終わってしまったんだなと、その時僕は自分自身はっきりと納得することができた。
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会場に展示されていたチーム・スーペルガーラのスーパー・チンクエチェント。こういう馬鹿げたクルマっていいなあ。
イタリアのクルマ。頑張れ、スーペルガーラ!
セストリエーレを風のように疾れ! |
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それは、立花隆が『二十歳のころ』のあとがきで「人間社会のあらゆる集団・システムも、放っておけば必ず解体するようにできている」と、いわゆるエントロピー増大の法則を引いて述べた、まさにそのものにほかならなかった。厳しい言い方をすれば、ジョバンニ亡きあとに、エドガルドはカロッツェリア・ミケロッティの存続を賭けた、エネルギーの投入が出来なかったのだ。
能力の問題なのか。たぶんそれはイエスでありノーだ。しかしもっと本質的には、ミケロッティを運営していく上で、エドガルドに常につきつけられてきたのは彼の志の在り処だっただろう。ミケロッティの看板を背負った彼自身が、ミケロッティをどうしたいのか、ミケロッティをどの地平に進めていきたいのか、それを見せてみろよ、と世界は彼の答え待っていたはずなのだ。
エドガルドに溢れる志さえあったなら、彼は父親に替わる新しい才能を組織することもできただろうし、その才能が内包するエネルギーを「システム維持の側に組織していくメカニズムの存在」、すなわちそれを組織していく主体として、彼自身もっとがむしゃらだったんじゃないだろうか。
彼にはそれが出来なかった。時間が解体のエネルギーを増殖させてゆくのを、ただミケロッティの名に凭れかかり眺めていたのかもしれない、いや、眺めていたのだ。
だが、しかし、このミケロッティの黄昏の光景は、もしかしたらそれはそのまま、トリノショーが中止になったことに象徴されるイタリアの自動車世界の、すなわちフィアットの、一種閉塞的な現在の状況の写し絵かもしれないのだ。アルファ156と147に最後の花火を上げさせて、座してGMの軍門に下るのか。
トリノショーの中止はつくづく残念だ。世界のどのメーカーが参加しなくても、フィアットにはイタリア自動車界の総力をあげた気合の入ったショーを、単独ででも見せてもらいたかった。それで大失敗したら?
いいじゃないか。渾身の直球勝負はいつだって素敵さ。それにね、ただ生き長らえることへの入念な方策にではなく、現状を打破しようという気概に一票を投じたいと思っている人は、世界にはまだまだたくさんいるに違いない。 |