第31回 君は誰だ |
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地下の作業場で日本へ送る荷物のインボイスを作っていると、ロベルトさんが僕の前にトリノの地元紙『La
Stampa』をポンッと置いた。
日本のことが書いてあるよ。
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今のニッポン、と紹介された女子高生3人組。僕としてはあの恐怖のガングロを出して欲しかった。 |
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ワールドカップで日本を訪れたイタリア人記者の記事だった。メインタイトルは「日本」、サブタイトルは「危機の中の長い雨」である。写真を見た瞬間に、ああ、読まなくても内容は想像がつくな、と思った。それでも、インボイスづくりが一段落ついたのを見はからって、しばらくの間活字を追ってみた。もっとも、僕のイタリア語の力では、これを完璧に理解する読解力など到底望めないから、辞書と首引きということになるのだけれど。
大まかに言えば、この記事の内容はこんな具合だ。「長引く景気低迷、蒸発者そして自殺者の増加、夥しい数のホームレス、リチャード・ギアにちょっと似た楽観的な首相、モラルを失った若者……」、そして結びは、「この国には太陽の光がささず、今も長い雨の中にある」。
と梅雨に引っ掛けたウイットをちょっぴり見せながら、日本のタイヘンな「惨状」を伝えている。まあ、これがかなり誇張された記述であるとしても、全然事実とは違うぜ、とも言えないだろう。表層的な記事には違いないけど、日本の表層的な部分は確かにこんなものかもしれない。
なにはともあれ、この記事をイタリア人記者にもたらしたのは、いうまでもなく6月のワールドカップである。もう少し具体的に言えば、稲本選手である。華々しいゴールで世界に名を知らしめたと僕ら日本人が思っている彼は、実際はそのゴールの鮮烈さというよりは、あのブロンドヘアによって、イタリア人の多くには記憶されているようだ。7月のイタリアで何人のイタリア人に訊かれたことだろうか。
なぜ、イナモトは髪の毛をあんな色にしているんだ?
僕は答えに詰まる。なぜなら、そのわけなんて知りもしないし、考えたこともなかったから。ファッション、と言えばいいんだろうか。
いずれにしても、イタリア人のある層(大多数かもしれない)にとって、稲本選手の髪の色は、自国文化に対する誇りを遺棄している象徴として映っているようだ。黒い髪、黒い瞳、勤勉で、礼儀正しく、控えめで、規則を遵守する、といった従来の日本人像が変質してしまう、と日本人に好意的な人ほどそんな心配をする。
変わらないのは、とロベルトさんが言った。集団性、なんだよ。この写真の女の子たちもみな同じ格好をしてるじゃないか。
ツアーのバッジを胸にフィレンツェやヴェネツィアを連なって歩き、ブランドショップに忍耐強く長蛇の列をなし、みんな同じように携帯電話を耳にカラフルな髪を風になびかせる、と揶揄する。
イタリア人にとって、日本は遠い国だ。8月のバカンスのパンフレットが並ぶ旅行代理店に行っても、日本へのツアーの案内なんてほとんどない。海外旅行の渡航先としてイタリアがトップ3に入る人気を見せる日本とは大違いなのだ。だから、彼らの日本観は、こうして新聞やテレビが伝える断片的な、そしていくぶん誇張された現象の集積として形作られてゆく。
ロベルトさん、それは違うよ。と僕は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、日本人らしく曖昧に笑った。不意に突きつけられた「日本」が僕の胸のなかでバタバタしていた。 |
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イタリアに通い始めて間もない頃、僕はトリノの街をひたすら歩いた。歩いて歩いて、その中で建物の姿を目に焼きつけ、一本一本の通りの名を頭に刻んでいった。もちろんそれには、路面電車やバスの運行経路がよくわからず、運賃の支払い方もちょっとなあ、という心許なさがいちばんの理由としてあったのだけど、それにしても今とは比較にならないほど自覚的に、この土地に慣れ親しもうとしていた。
長く仕事をするならここのコミューンに溶け込まなければならない。トリノという土地に対する不案内さを克服すると同時に、僕がしなければならなかったことは、コミューンに溶け込む、つまりここでの円滑な人間関係を構築していくことだった。で、そのためにどうしたか。
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トリノでロベルトさんから借りている僕の「仕事場」。ここでインボイスを作ったりして、遠い日本まで品物を送る準備をしています。 |
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僕は自分の影を薄くすることに腐心した。毒にも薬にもならないような、彼らが望む日本人像をさらっと演じようとしていた。いや、ちょっと違うな。あくまでも日本的な気遣いを最大限に発揮していた、と言ったほうが正確かもしれない。たとえば、それはこんな具合にだ。
僕がひとりで夕食をとらなければならないことを気遣って、イタリアの取引先や知人はよく夕食に誘ってくれた。最初のうちは喜んで出かけていったけれど、しばらくすると、僕は相手が安心しそうな理由をつけて、その誘いを断ったりするようになった。知り合いと約束があるからとかなんとか言って。相手が自分のために時間を割くということ、それがだんだんと、たとえようもなく苦痛になってきていたのだ。相手の負担になりそうなことは、何もしてほしくなかった。
自分がいることによって、彼らの生活の一部分が乱されるのではないかと、そんなことを常に意識し、だからそうならないように、それを事前に避けて行動すること、不自然だけどその不自然さがその先で自然な関係を生むこと、それを僕は何よりも願っていた。
あの頃、いつも思っていた。放っておいてくれればいいのに。イタリア人に親切にされればされるほど、僕は相手がそれに費やすエネルギーを考えてしまった。そして、それがことさら自分の気持を重くするのだった。
帰りの飛行機に乗った瞬間にフゥーッと力が抜けていった日々。いい品物を見つけ、それを手に入れる喜びと引き換えに、無限の砂時計が自分の心の中に細かくそしてしっかりと重い粒砂を積もらせてゆく。ああ、これじゃあ、いつか動けなくなってしまうんじゃないのか。1997,8年の頃だったと思う、その頃、イタリアに行くことが僕にはだんだん苦痛になってきていた。 |
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日本人には日本人の暮らしがある。たとえヨーロッパの人が過度の集団性と笑う日本人の海外ツアー旅行だって、小さなころから遠足だ修学旅行だとそういう形の旅が身体に染み付いてきた僕らには、ごく自然なことなのだ。初めての土地、通じない言葉、そして経済的な効率性を考えれば、費用のかかる海外旅行をツアーに参加することで体験するのは、とても合理的なことだと僕は思う。
それは確かに「集団性」かもしれないけど、はたして揶揄されるほどのことなのか。たとえば30名のツアーには、その旅を可能にしたどれひとつとして同じでない人生があることを、少なくとも同胞の僕は知っている。たとえブランド品漁りの旅であろうと、それが理不尽な上司に耐えてきた毎日の所産ならば、僕は祝福をさえ捧げるだろう。良かったね、我慢してきて。僕には笑えない。僕は日本人を知っている日本人だからだ。
でも、僕がロベルトさんに言おうとして言えなかったこと、それはただ単にもう面倒臭かったにすぎないのだけれど、そんなことではない。それは自立することの困難さ――とでも言えばいいだろうか。集団が問題なのではなく、自立の問題なんだと思う、ロベルトさん。
ひとりの個人として、ほんとうにひとりで生きてきたのか。自分というものが本当にあるのか。イタリアでの僕の「気遣いの」日々は、結局その問題に収斂される。周囲に日本人がいない。日本語で話す環境がない。銀行のシステムも、レストランでの代金の支払い方も、電車の乗り方も違う。何もかもゼロから始めなければならない。こうなったときに問われるのは、君は自立した個人として生きてきたか、ということである。
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約1年前のフィアット・スティーロのディーラーでの発表会。今の販売状況は惨憺たるもので、フィアット消滅の決定打になるのではと口さがないトリノの人たちは噂する。フィアットはフェラーリ株の35%も銀行に売却した。 |
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日本にいるときはそんな気になっていた。自分は自分の力でやってきたと、ちっぽけな自負さえ持ったりして。でも、はたしてそうだったのか。それは日本のシステムの中でだけ可能だった条件付のものではなかったのか。
だから僕はトリノで、自分の閉塞的な状況を、イタリア人にとって理想的な存在であろうとすることによって通り抜けようとしていた。イタリア人の間をうまく立ち回ることに汲々としていたのだ。群れから離れた小魚がキョロキョロ、びくびくしているみたいに。摩擦を避ければうまくいくと。肩が触れ合わないように、そうやって自分を守ろうと。
そうじゃないんだ、ということが今はわかる。人は石鹸ひとつ自分で買うことから始めなければならない。顔を上げて、胸を張って、自分の財布からお金を出して、自分の存在をそこにあらしめるために、どんな瑣末なことであっても、ひとつひとつ手に入れていかなければならない。誰かによってではなく、自分でだ。そういうことが今はわかる。だけど、それに要した何年かの日々は、いい歳して、決して短いものじゃなかった。
『La Stampa』を飾った女子高生にも、そしてもちろん稲本選手にも、君は誰だ、と問われる時が必ず訪れるだろう。だから、群れた小魚ではなく、谷底から這い上がる孤独なライオンになれ。髪の毛の色なんて問題じゃない。まあね、僕は好きじゃないけど。 |