第33回 もうすこし遠くまで |
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1995年の、あれは確か初夏の頃のことだったと思う。その年の9月に控えた『イタリア自動車雑貨店』開店の準備で、まだ商品はおろか什器さえも満足に揃っていなかった店内で、僕は真新しいフローリングの床に這いつくばって棚の脚の調整かなんかをしていた。
まだなんですか?
不意に耳もとに届いた声に入り口の方に目をやると、30代くらいの男のひとがニコニコ笑いながらこっちを見ていた。ええ、9月の4日からなんです。とかなんとか答えたのだろうか。もうずいぶん前のことなので、細かなやりとりのひとつひとつは覚えてないけれど、行く末も知れぬこんな店のオープンを待ってくれている人がいる、というそれだけのことが、そのときの自分にはたとえようもなく嬉しかった。
開店したら来ますから。
そう言ってその人は帰っていった。今もはっきりと覚えている、それがYさんと僕の出会いだった。
約束どおり、Yさんは開店した『イタリア自動車雑貨店』に来てくれた。一時期などは休みのたびに、ブルーのパンダに彼女を乗せてやってきては、乏しい商品の中から決して安くはないものを、ひとつ、そしてまたひとつと買っていってくれた。パンダの話もよくした。僕も彼と同年式のパンダに乗っていたので、ここをいじりたい、あれを換えたいと、店の外に停めたパンダを前にたわいもない話に興じていた。
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チンクエテッレの中のひとつ、ポルトヴェネーレの海。ニューカレドニアかなんかの海のようで、ほんとにコバルトブルー。水温は結構冷たかった。 |
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秋には鈴鹿のF1、冬になると何度かのスキーへと、Yさんは彼女を連れ立ってほんとによく出かけていた。僕などは女には男のクルマに対する気持など絶対にわからない、と頑なに思い込んでいる古いタイプの人間なので、自分の好きなクルマには自分ひとりで乗っているのがいちばんいい。だってね、ああ、あそこに停めてちょっと自分のクルマを眺めようなんて思っても、自分ひとりだったらなんの遠慮も躊躇もなくできるけど、彼女が一緒だとなかなか出来ないでしょ。何かをするわけでもなく、ただクルマを眺めているだけなんて、ちょっとオカシイんじゃないの、と思われるのが関の山だから。
まあ、それはともかく、Yさんと彼女はパンダに乗って青春をエンジョイしている、なんて言ってしまうと陳腐だけど、でもそういう雰囲気に満ちあふれていた。ふたりでいることがほんとに楽しそうで、そこにちょうどいい存在感のパンダもいる。絵に描いたような恋人同士。Yさんよりずっと若かった彼女は恥ずかしがり屋で子供のようで、そんな彼女をYさんは守ってあげたいと思っていたんだろう。イニシアティブはなんとなく保護者のようなYさんが握っていて、彼女はいつもその後を無邪気について回っていた。
そんなふたりが結婚したのは、確か『イタリア自動車雑貨店』オープンの翌々年、1997年の春のことだった。 |
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9月。ジェノバからほど近いリゾート地チンクエ・テッレ(Cinque
Terre)にいた。8月のアンジェリカたちの日本滞在のお礼ということで、彼女と彼女の兄夫婦のアンドレアとアンナリサが、僕のイタリア滞在に合わせて、アンナリサの生まれ故郷に近いそこに招待してくれたのだった。
チンクエ・テッレは厳密に言えば地名ではなく一帯の地域の名で、そこには5つの村(だからCinque)がある。美しいリヴィエラ海岸沿いのこの村々は、カラフルな外壁の家屋や美しいという言葉では伝えきれないほど美しい海が、イタリアの都会とはまた異なった情緒を湛えている。
9月の半ばを過ぎているのに、そこに滞在した2日間とも真夏のように暑かった。アンジェリカたちは、美しい景色をできるかぎりたくさん僕に見せたかったのだと思う。2日間、歩きに歩いた。それはまるで小学校時代の林間学校の山登りさながらで、僕にとっては景色を堪能する旅というより、体力を試されるスポーツのようだった。切り立った崖の上の村からゴツゴツした大きな岩の海岸まで、5つの村それぞれで往復するというのは、まぎれもなくスポーツだろう。
唯一平穏な時間がほんの少し流れたのは、モンテロッソ(Monterosso)という村の、白い玉砂利を敷き詰めたかのような浜辺で海を眺めている時だった。歩かなくていいと思うだけで気持が安らいだ。リグリア湾を渡ってくる風はテレサテンの歌声のように優しく、僕はそれに抱かれてすこしウトウトしてしまった。そんなふうに過ごしている時に、ポケットの中の携帯電話が鳴った。
はるばる東京の店からの電話だった。電話の内容は、進行中の新ホームページの完成が、予定より遅れそうだということだった。それを聞きながら、ああ、やっぱり、と思う自分がいて、その自分は耳に入ってくる言葉とは無関係に、白い玉砂利を洗うどこまでも透明な海の水だけをぼんやりと眺めていた。
落胆、だったのかもしれない。けれど、遅れることも、そしてそれによって失望す
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チンクエテッレ。海岸から急傾斜にたちのぼってゆくカラフルな家々。明るい陽光の下では、まるでおとぎ話の世界に紛れ込んだよう。眺望の良い家をこの辺りで買おうとすると4〜5000万円もする。 |
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ることも、すべて自分の中では予定通りのことのような気がしていた。だから、店の人間に僕が自分の役割として発した強い言葉とは裏腹に、なんだかやけに静かな気持で、ただじっと透明な海の水だけに目をやっていた。明日も生きている、明日もすべての状況が今日と同じだ、と無条件に信じて疑わなければ、物事を無自覚に先延ばしできる。ただ、そういうことなんだよ、と透き通った海水の上でユラユラ揺れる自分が言っていた。
そうだよね、新しさとは常に困難の所産、と僕は信じてきたもの。その困難と馴れ合うのも、あるいは立ち向かうのも、それは新しさを創造しようとする主体の、具体的にはそこにいる特定の個人の、その選択の問題で、選択にはいつも現実的な打算がつきまとう。つまり、どちらが安楽でどちらが苦難か、ということだ。今、現実に店を切り盛りするスタッフたちが、どちらを選んだのか、それは自明のことだった。
電話を切ると、アンジェリカが昼食にしようと言ってきた。切り売りのピザスタンドで簡単に済ませようと言う。もう、ちょっと、うんざりだな、と思った。アウトストラーダのアウトグリルに始まって、その2日間、きちんとした場所で食事を摂っていなかった。”スポーツ”で疲れた身体は何を食べるかということ以上に、どこかにゆったりと座って静かな時間を過ごすことを要求していたけれど、若いアンジェリカたちは違った。若さは悠々と流れる時間の存在というものを許せないようだった。
それにしても、彼らは僕に1ユーロも払わせまいと頑なだった。痛いほどに感じる彼らの厚意は、自分が彼らの生活の実相を知るがゆえに、少しばかり重かった。 |
☆☆☆ |
結婚後、Yさんが店に現れる頻度は目に見えて減っていった。何ヶ月かに1度、忘れたころにふらっと現れて、ほんの少し世間話をして帰っていく、というパターンになっていたし、今年はもうほとんど姿を見ていなかったような気もする。
確か7月だったと思うけど、ほんとに久しぶりにYさんが現れた。以前よりずっと痩せていた。店の外に出てふたりで話をした。生温い風の吹く夜だった。
実は……、離婚したんです。
Yさんがちょっと言いにくそうに放ったその言葉に、僕は少しだけ驚いたようなそぶりを見せたけど、ほんとは少しも驚いてなんていなかった。なんとなく、なぜだかわからないけど、そんな予感があった。こういう話を聞いたときに、それに対してどんな言葉を返すのか、それはとっても難しくて、その時も僕はきっと訳のわからないことを言ってお茶を濁していたんだと思う。お茶を濁すんだな、僕という人間はいつも。なぜ?と訊いたのか訊かなかったのか、今もって明確な理由を知らないのだから、きっとYさんが答えられるようには訊かなかったんだろう。
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チンクエテッレの村々ではこんな狭い通りが縦横に交わっている。これでもVia〜と
立派な名前がついている。この通りの名前は忘れたけど。
そうそう、やたらに猫が多いのもチンクエテッレの特徴。漁港だからか。 |
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人はそれぞれ時間とともにいろんなことを知る。いろんなことを知るにつれて、人生には知らないでいることのほうがずっと幸せなことが多い、なんていうパラドックスさえも知る。すべてを明らかにしようとするなんて、愚かなことなんじゃないかと、そんなふうにさえ思うようになる。
Yさんと彼女の間に、結婚後どんな時間が流れたのか、それは到底僕の知り及ぶことではない。でも、僕が知っているYさんと彼女は、青いパンダに乗っているふたりで、F1やスキーに仲良く連れ立って行っていたふたりだ。彼女に噛んで含むようにいろんなことを教えていた父親のようなYさんであり、クリスマスイブの寒い夜に、息せき切ってYさんへのプレゼントを取りに店にやってきた紺色のコートの彼女だ。それは美しい思い出で、いつまでもとっときたい、まるく柔らかな記憶だ。だから、僕はそこで、蓋をする。
あの夜、なんだか生気のない風の中、どことなく沈みがちなYさんの痩せた肩先を目の端に入れながら、僕は心ひそかに、亡くなった作家の須賀敦子さんの、繰り返し読み込んだ一節を反芻していた。
「ひとそれぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらない」
Yさん、これからなんだよね。そして、これからだって、きっといろんなことがあるよ……。
そうして、その夜から少し経ったある日、Yさんはまたふらっと現れた。その時、なぜだったんだろう、僕は『イタリア自動車雑貨店』のホームページリニューアル作業の取りまとめ役を彼に依頼した。彼がコンピュータゲームのソフト開発業界に籍を置いて長い、という少しばかりの関連性はあったにせよ、なぜそれをYさんに頼んだのか、今もって自分でもそれを合理的に説明することができない。ただ、できる、という確信と、Yさんにやってもらいたい、という思い込みのようなものがあって、その先の成否には目を瞑っていた。
業者の選定、全体のスケジュールの立案、店のスタッフへの仕事の割り振り、そして実作業と、はたしてYさんは僕の期待に違わぬ仕事をしてくれた。1500点以上に及ぶ商品の一点一点を、旧ホームページから拾い上げてゆく気の遠くなるような作業は、Yさんによって遂行された。それは煩瑣なことだけれど本質的なことで、本質的なことを本質的にするかどうかというのは、常にその人の誠実さのありように収斂される。立派な仕事だったと思う。完成の遅れ?
それは概ね『イタリア自動車雑貨店』のスタッフに帰されるべき事柄だと思っている。そのことはYさんの名誉のためにも付け加えておかなければならないだろう。
みなさん、新しいホームページをご覧いただけるようになりました。Yさんの献身的な努力と、僕に怒鳴り飛ばされながら耐えた当店のスタッフの七転八倒の仕事です。ご不満に感じられる点が多々あるのではないかと、今はそれが気になってしかたありません。
2回目のリニューアルです。そのいずれの時も、もうひとつのお店を作る、という目標をもってやってきました。トップページにいきなり商品が出てくるショッピングサイトではなくて、僕がこの店をオープンしたときに目指したものや、この店のスタッフが手探りでひとつひとつ切り拓いてきたものを、それを少しでも具現化したカタチで示そう、というのが僕たちの拠って立つところです。
『イタリア自動車雑貨店』のちっぽけな意地とココロザシも、スプーン一杯ほどは入っているかもしれません。
もうちょっと遠くまで行こう。そう呼びかけて、きょうからまた新しいお店づくりをはじめます。このウェブサイトが皆様に愛されることを願ってやみません。イタリア自動車雑貨店を、今後ともよろしくお願い申し上げます。 |