第34回 トリノのいま |
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トリノのフィアットディーラーの、コンピュータに繋がれた大きなプリンタの横で、エリザベッタは所在なげに頬杖をついていた。プリンタの奥には積もるにまかせた埃だらけの部品棚がいくつも並び、そしてその棚の上には、整理整頓とは無縁に、ただ置いただけにしか見えない様々なパーツが、死んだようにころがっている。
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リンゴットの旧フィアット屋上のテストコース.奇想天外なアイデアがいかにもイタリア人のものらしい。ABARTHもここを走った。 |
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少なくとも、90年代半ば当時は、こんなふうではなかった。クーペ・フィアットが、そしてバルケッタが、ラインナップの一翼に加えられたあの頃のフィアットには、イタリア的自動車解釈を世界に示そう、という意気込みがあったように思う。
たとえクーペフィアットが、販売台数という数字において、結果としてはフィアットに果実をもたらさなかったにせよ、バルケッタがユーノスロードスターを睨んだ、遅れてきたイタリアンカウンターパンチではあったにせよ、それでもそこには「次」を予感させるだけの元気があった。他の何にも似ていない、どこか心に引っかかる、そんなイタリアン・カロッツェリアの血筋を、僕らは製品としてのそのクルマの中に確かに読み取っていたと思う。
でも、今はなにもかもが違う。フォルクスワーゲン・ゴルフの後を追って、だけど、できそこないのゴルフにしかなりえなかったニューモデル、スティーロが鎮座するディーラーのショールームには、早々と勝負を諦めたボクサーの自己弁護に満ちた自嘲のような、そんな決して共感したくない生ぬるさが漂っている。
なんだかすごくイタリアっぽいな、と思う。イタリア人は概してそうだけど、まだ決まってないうちから、まるでそれが不可避なことであるかのように、肩をすくめてみせたりする。タオルを投げ入れる前に、渾身の左ストレートでも見せてみろよ。
モンカリエリ(トリノの郊外)に家を買ったのよ。ブロンドの髪、スリムな体形、そしていつも黒っぽい服を着ているエリザベッタは、イタリア女のまあるいやわらかさとは無縁の、どちらかというとクールな印象を放つ。今年34歳。結婚なんて絶対しないと、なぜだか強い口調で宣言していたのは、20代の終わりの頃だったろうか。初対面のときから日本人である僕に徹頭徹尾冷淡で、だから彼女の顔を見るのがイヤな頃も正直あったけど、今はずいぶん変わった。大きな氷が、ゆっくりゆっくり、じれったいほど時間をかけて溶けるように、そんなふうに変わっていった。
家を買ったって、結婚するの? 僕の言葉にエリザベッタはノー! ノー!と激しく首を振った。何もそれほどまでに、と思うくらい強く否定して、それからちょっと声をひそめて言う。ここもいつまであるかわからないし、それでも今ならまだ(フィアットの社員ということで)、家も買いやすいのよ。
ふ〜ん、そんなもんなんだ、と適当に相槌を打って、プリンタが吐き出す、印字部分より余白がはるかに広大な伝票を目で追っていた。もったいないくらいのその余白は、危機に瀕する企業なら、本来いちばんに節減の対象として槍玉に上げる種類のものだろう。部品をパッケージしている大きすぎる袋、これだってそうに違いない。膨大な積み重ね、それも負の積み重ね。さあ、一体何から手をつければいいのかと自問して、その問いの重さに今フィアットが首をうな垂れている、僕にはそんなふうに見えてしかたがない。 |
☆☆ |
あしたは休むのよ。家に入れる家具を見に行くから。エリザベッタはニコッと笑った。ほんとに可愛らしくニコッと笑った。その笑顔にはどこかあどけなさが残っていて、子供の頃はこんなだったんだろうなって、なんとなく想像できる。いいね、楽しみだね。モンカリエリは静かなところだし。そう言って僕は、去年の12月を思い出していた。モンカリエリの急勾配の細い坂道にある商店街の先には、小さな広場があって、そこに大きな大きな電飾のツリーが据えられていた。吐く息が真っ白な、ピーンと張り詰めたような夜の寒さの中で見た、あのツリーの幻想的な美しさ。いつもそうだけど、その時も僕はひとりだった。かみ締めたいと思う景色は、いつもひとりの、ひとりの心にしか訪れない。
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以前、このITALIA NOWに書いたこともある『エンツォのバール』。その後、経営者が2回替わり、現在はご覧のとおりうら若き女性が切りまわしている。エスプレッソの味も変った。紅茶もある。 |
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エリザベッタは暗い部品庫に背を向けてもう一度笑顔を見せた。ああ、そうか、と思う。こんなふうにみんなが少しずつ、フィアットと距離を置き始めている。フィアットの現状打破のために今何をするかではなく、やがて訪れる、と誰もが信じて疑わない「フィアット後」に備えて、その時の自分の生活のために今何をするか、みんながそれぞれにそれを考え始めている。
変化、はトリノの街を歩いていても感じることができる。市内随一の目抜き通り、ローマ通りでも、ここ1年店の顔ぶれが大きく変わった。
ローマ通り、サンカルロ広場脇にあったガトゥルッコという、紳士・婦人用服地のいわゆるテーラーは、日本でも馴染み深いベネトンショップにとって代わられた。ガトゥルッコは格式のある古い店で、でも大きなショーウィンドゥには見事に、大海の波のように服地をディスプレイしてみせるという、その大胆なセンスがとてもイタリア的な、僕の憧れの店のひとつだった。もうちょっと歳をとったら絶対にここで服を作ろう、心ひそかに抱いていた計画も霧散してしまった。
鈍感な自分は気がつかなかったけど、今思えば3年ほど前にこのガトゥルッコの真向かいにエルメスが出来たころから、既に変化の予兆があったのかもしれない。チェントロ(市の中心部)にすぐ隣接して、いわゆる普通の住居地域がはじまるここトリノの街に、普通のトリノの人々とは無縁の店が、ひとつ、またひとつと増えていった。まるでミラノを追いかけているかのように。
グッチ、フェンディ、プラダの商品を並べる店も出来た。ローマ通りはよそ行きの、つんと澄ました表情を以前にも増してまとうようになり、そこにちらほら日本の若い女の子たちの姿を見ることもできる。彼女たちは、この街が常にフィアットと寄り添ってあったことも、FIATのTがTORINOのTであることも、そんなことにはなんの意味も見出さないだろう。ましてや、トリノという街自体が、日々フィアット色を薄め、フィアットの掌から離れていこうとしているのだから。
父親が昔、ガトゥルッコで一回だけ服を作ったことがある。家の最初のクルマはトポリーノで、自分の初めてのクルマはフィアット850。ナルディの木のハンドルに付け替えたそのクルマに乗って、リンゴットの工場にエンブレムを納めに行ったんだよ……。いつか知人のロベルトさんが話して聞かせてくれたそんな昔話。おそらく、この街で暮らす無数の人々が、同じように持っているだろうトリノの香りや景色が、少しずつ後ろの方に流れて小さくなってゆく。
明日は私が休むからここも休みよ。エリザベッタがサラッと言って、えっ、そんなものなのか、と僕はまたちょっと驚く。エリザベッタの言葉がスキップするように耳をかすめていった。
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☆☆☆ |
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ランチア通りのなんてことのない修理工場。でも、目をこらせば奥にワークス・ランチアがポツンと置いてあるのがわかる。イタリアは凄い。イタリアが好きだ。 |
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11月の半ばからほぼ2週間あまり、トリノの街は1日を除いて毎日雨だった。もうすでに街の中はクリスマスイルミネーション一色で、
それはいつものことながらとてもきれいだけど、降り続く雨のおかげで靴が一足ダメになってしまった。道が穴ぼこだらけなので、油断してると水溜りに足を突っ込んでしまう。クルマに1本、歩きの時のために1本持っていた傘は、2週間フル稼働だった。
それにしても、なんかの本でも読んだことがあるけれど、イタリア人は傘をささない。もちろん、すべての人がささないわけではないけど、確実に3分の1くらいの人はさしていない。ロベルトさんも雨の時は帽子をかぶる。なぜなんだろうか、とても不思議だ。
そんな雨の一日、リンゴットに行った。フィアットの工場跡地のここは、現在はイベントホールが1階に、そしてその上はショッピングセンターになっていて、屋上にはかってのフィアットのかの有名なテストコースがそのまま残っている。隣接してメリディアン・ホテルが建つ。その日のお目当ては、ちょうどその時開催されていたPinacoteca
Giovanni e Marella Agnelli (ジョバンニ&マレッラ・アニエッリ夫妻の絵画展)の見学である。
フィアットの旧テストコースのさらに上に、そのためにだけ建てられた絵画展の会場は、20数点という展示数だけあってこじんまりしたものだったけど、警備がものものしかった。なにしろ、展示されている絵画が、ピカソ、マネ、モジリアーニ、マティス、など、おそらく値段をつけられないようなアニエリ家の個人コレクションだからだ。フィアットのではなく、アニエッリ夫妻個人の。
その畏れ多い絵画が、申し訳程度にロープが張られたすぐ先に、そう、腕を伸ばせば確実に触ることができるほどの距離に展示されている。それを目つきの鋭い10人ほどの女性監視員がグルグル巡回して見張っているのだ。男の監視員にしなかったのはなんとなく理由がわかるけど、女でもすごかった、体格が。
だったら堅牢なガラスケースにでも入れて展示すればいいじゃないか、と思うほどにその監視員の存在、というより、その頑丈そうな靴が発する足音が気になったのだけど、そこはイタリア、高価なクルマが並ぶ自動車博物館などでも日本のように触れないようにしては置いていない。触ってはいけないのだけど、触ろうと思えば無理なく触れる。いいんだか悪いんだかちょっと判別しがたい鷹揚なシステムなのだ。そこで1時間ほど絵を見ていた。
でもなあ、と思った。フィアットの危機が声高に叫ばれているこんなときに、フィアット総帥のアニエッリ家が、おそらくは膨大な金額にのぼる個人の絵画コレクションの展示会を開くというのは、どういうことなんだろうか。すぐに「世間の皆様」に詫びを入れたり、陳謝の記者会見のときに袖口から覗いたフランク・ミューラーに非難の声があがったりする日本では、絶対にありえないことのように思える。僕はフィアットで財を築いたアニエッリが、フィアットの現在の苦境を招いたことへのお詫びとして、地元トリノの人々に公開したのだと直感した。それにしては入場料4ユーロも取るのか?というのはあったけど。
そんな疑問を後日ロベルトさんに話してみた。老いた自分の死期を悟ったんだと思う、というのがロベルトさんの答えだった。謝罪のつもりじゃないのか、と言う僕に、ロベルトさんは怪訝な顔をした。謝罪?
なぜ? アニエッリ個人とフィアットの問題は別だよ。フィアットのアニエッリの絵ではなく、アニエッリの絵だ。
僕にはイタリア人が傘をささないこと以上にこの答えは不思議だった。道理では理解できても感情の部分で受け入れがたかった。フィアットの工場労働者の相当数の首切りが行われている時なのに……。それも、日頃フィアットに人一倍辛らつなロベルトさんの言葉だったから、余計そう感じたのかもしれない。
なんとなく複雑な思いを残して11月のトリノが終わろうとしていた。チェントロの一等地に違和感まるだしで存在していた奇妙なカーショップを思った。9月にはあって11月にはなくなっていた。いつもこばかにして見ていたけど、写真を撮っておけばよかった。
そうだ、来年はたくさん写真を撮ろう。フィアット・ミラフィオーリ工場を、ヴィンチェンツォ・ランチア通りの大きなビルディングにかかるLANCIAの看板を、そしてその周囲にへばりつくように残る鈑金屋や修理工場や部品工場を、そのひとつひとつを写真に撮ろう。僕にとってトリノはやっぱり自動車の街だ。「イタリア」のフィアットの街だ。それがいつまでも残ること、それだけを心から願う。
さあ、2003年、頑張ろうよ、フィアット!
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