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ジョヴァンニと愛息エドアルド。エドアルドは2000年11月、アウトストラーダの高架上から飛び降りて、自ら命を絶った。 |
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これはね、“フィアットのアニエッリ”が死んだということじゃないんだよ。レストランのテーブルに両肘をのせて、ロベルトさんはその言葉が届いたかどうかを確認するかのように僕の目をじっと見た。目の前に広げられたトリノの地元紙『LA
STAMPA』は、ほぼ全ページをジョヴァンニ・アニエッリの死を伝えることに割かれている。ああ、わかるな、なんとなくわかるよ。トリノの人々にとって、戦後イタリア経済を牽引してきたジョヴァンニ・アニエッリの死は、トリノのある部分の欠落にほかならないのだ。
今回イタリアに来る前、1月25日の新聞でジョヴァンニ・アニエッリの死を知ったとき、一瞬息が詰まるような驚きとともに、前の年の秋にリンゴットの旧フィアット社屋の屋上から眺めたトリノの街並が、静かに目の前にひろがった。
かつて、アニエッリ自身がこの屋上のテストコースから何度も見ただろうトリノの街。小高い丘に抱かれ、ポー川に寄り添うようにあるトリノの街。碁盤の目のように整然と区画された、オレンジ色の屋根の連なるトリノの街。そして、僕自身のほんとにちっぽけな、取るに足らない歓びや失意が詰まったトリノの街。そうして、やっぱりアニエッリは死んだんだ、と改めて自分に言いきかせてみると、そこにひとことでは説明しきれない感情が覆いかぶさってくるのだった。あえて言えば、アニエッリの死そのものよりも、アニエッリを失ったトリノの街を思って悲しかった。
Fabbrica Italiana Automobili Torino (FIAT=トリノ・イタリア自動車製造会社)のTの文字にこそ、かつてのイタリアの首都トリノの誇りと矜持を込めたアニエッリ家を、トリノの人々は愛した。いや、それは愛憎半ばする感情と言ったほうが正確だろうか。トリノの経済的発展の中心に常に存在し続けたアニエッリ家に対する畏怖。そしてそれと背中合わせに、人々が持たざるをえなかった富める者に対する密やかな侮蔑。曰く、「ほら、あの貴族的な生活はフィアット労働者からの搾取の賜物なのさ」「どんなに金があったって、エドアルド(ジョヴァンニの息子)だって自殺した。不幸な家庭だよ」というように。
思えばフィアットの経営危機の深刻化に歩調を合わせるように、トリノの街の景色もすこしずつ変容してきた。2002年トリノショーの中止は、かつての自動車の聖地の凋落を何よりも印象づけたし、出展者数,入場者数ともに惨憺たるものに終わった部品ショー“TORINO
AUTOMOTOR”、フィアット直営の自動車アクセサリーショップの閉鎖、街なかの自動車修理工場の相次ぐ廃業、と自動車をキーワードにトリノを見ると、もう終わり、という様相を呈している。
それは時代の流れといえば確かにそうで、自動車界の覇権は、もうとうの昔に、甘くロマンチックで、ちょっぴり人生の機微をさえ感じさせるイタリア車から、強固で精緻なクオリティー・カーとしてのドイツ車やその傀儡へと移ってしまっていたのだ。
そんな客観的事実を次から次へと突きつけられる中でのジョヴァンニ・アニエッリの死は、象徴的といえばあまりにも象徴的、ドラスティックな出来事だった。プロセッコをぐっと飲み干して、ロベルトさんは、自分にもいろんな思いがあるけれど、と言った。いろんな思いがあるけれど、いままでトリノをもりたててきたのはアニエッリ家だから……。と言って、そこで言葉を切った。僕は促すように、だから?と訊いた。
だからね、トリノの人間は不安なんだ。フィアットがどうのということじゃなくて、トリノのこれからが不安なんだよ。
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