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ペッローニさんのコレクションのほんの一部。エンツォから直接もらった手紙もあった。命より大切な宝物で、ガラスケース越しにしか拝めなかった。 |
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アイロン掛けの匂いがした。ペッローニさんからまず1階の部屋に案内されて奥さんを紹介してもらったとき、アイロン掛けの匂いがした。いい匂いでしょ、アイロン掛けの匂いって。なんか、そこでの生活を大切にしてる感じがしてね、たとえ安物のシャツでもきちんとアイロン掛けるって、きっと大切なことなんでしょう。靴を磨いたり、アイロンを掛けたりするってことは、その行為の中で自然と自分と向き合うから。いろんなことを考える。
玄関を入ってすぐ短い廊下、左側の帽子掛けにテンガロンハットが4つとボルサリーノが2つあった。帽子が好きなんだ。それから、右側にこじんまりとしたダイニング・キッチン、そして、その隣がバスルーム。左側奥がリビング・ルームで、おそらくその手前が寝室なのだろう。子供も独立したから、とペッローニさんはちょっと顔を赤らめて言った。狭い家だけどこれで充分だから。
それから地下の部屋へ行こうと促されて、いったん玄関を出て階段を下りた。1階とはうってかわって天井の低い地下室の扉を開けると、そこにはフェラーリ一色の世界がひろがっていた。
うわぁー、凄いですね。僕の驚きの声にペッローニさんはにんまりとした顔をこちらに向けた。ミニカーもこんなに集めて、写真もたくさんじゃないですか。これ何年かけて集めたんですか。
18歳のときから33年間、私はスカリエッティのボディ職人だったんです。ペッローニさんは淡々とそんな話から始めると、ボディの外板をハンマーでコツコツと叩く仕草をしてみせた。それから、50歳で年金生活に入って、今55歳になりました、と言うと、照れ隠しなのかなんなのか、大声で笑った。その笑いをやり過ごして、それにしても、と僕は思っていた。やっぱり、こういうことだったのか。僕はペッローニさんの手からなるあの大きなミニカーが漂わせる独特の空気の素を、期せずして探り当てたような気がした。あれは、昔のボディ職人の仕事の再現だったんだ、と。
60歳は超えていると思っていたのに,実際は5歳以上も若かったペッローにさんは、そのあと2時間以上、いろんなことを話してくれた。手仕事で作っていた頃のフェラーリは良かったよ、と何度も言った。フィアットの傘下に入ってからは、あからさまなコストダウンで、エンブレムを固定していたボルトが2本から1本になり、最後には両面テープだけになってしまったと嘆いた。ピニンファリーナのデザインといったって、実際は私らの手がフェラーリのボディを叩き出したと、だから実際には同じものはふたつとないんだ、と言って誇らしげである。
総帥エンツォ・フェラーリの傍らで顔を紅潮させたペッローニさんの写真もあった。何かの記念の食事会の時のスナップなんだろう、結び目の曲がったネクタイを締めた彼は、エンツォの隣で掌をこちらに向けて、胸を張って写真に収まっていた。
歩いているかぎり、いろんな人に出会うことができる。そしてその春夏秋冬こそが自分の仕事を豊かにしてくれることを、従順な羊であった僕はまたこうして知らなければならなかった。失ったものへのノスタルジーの一言では片付けられない共感を、ペッローニさんに覚える。エンツォの横に並んだ写真を見せてもらって、心底、思った。凄いじゃないか。良かったね、ペッローニさん。そして、来る日も、来る日もpianino,
pianino (ゆっくり、ゆっくり)とボディを叩き続けたこの男の人生と、それ誇りとして生きる今の彼自身が、とても羨ましかった。
それから何台かの彼の大きなミニカーを見せてもらい、その内の数台を僕はかなりの厚さのユーロ紙幣と交換に自分のクルマに積み込んだ。この繊細なガラスケースを日本まで無傷で送るのは博打のようなものだけど、自分がイタリアのクルマに関わる仕事をしている以上、そしてその何ものかを伝えうる品物を探し歩いている以上、この目の前のモデルはどうしても日本に、それも自分がいちばんに送り込みたいと思った。
帰り道、クルマの揺れがミニカーを損傷しないように、道路のでこぼこを慎重に避けてトリノへの道を辿った。7月1日オープンの新しい『イタリア自動車雑貨店』には、こいつを飾ろう。スカリエッティ・モデナのボディ職人、ペッローニの回顧と誇りへの共感を込めて、こいつを飾ろう。トリノに鼻先を向けたクルマの中で、僕はそのとき、なんだか無性に嬉しかった。
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