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第38回  アンジェリカの恋



Madonnna della Consolata教会。この白い建物の前に立つと、不思議と心が洗われるような気持になる。祈り、とはそういうことかもしれない。
 『9月20日大通り』に陽炎が立ち昇り、路面電車の線路が歪んで見える。バカンス休暇真っ只中の、気だるさに支配されたトリノの街の空気。乾いてる。こんな時にはザラザラした現実の感触だけが妙にくっきりと知覚されて、どんな永遠より長い午後がやってくる。押し黙った恋人たちが歩いていく。空の買い物カゴを提げた老女が思案に暮れる。陽に焼けたサングラス姿の銀行員が、大股で通りの向こうのバールを目指す。終わらない昼間が、それぞれの小さな絶望に光をあてている。

 そしていましもアンジェリカは、彼女の慎ましい部屋の小さなソファに座り、つい何日か前に終わったコペンハーゲンでのバカンスを思い起こしているんだろう。扇風機を2台も買ったし、バカンスの旅行代金だって1,200ユーロも払ったのよ、と大袈裟なため息まじりの彼女と電話で話したのは、7月も終わりの頃だった。9月の土曜日は全部働かなきゃ。そう明るく言って電話を切ったアンジェリカの言葉に、僕は彼女が、どこか彼女自身を鼓舞している響きを感じていた。

 その電話の翌日、メールが届いた。恋人のアンドレアと別れたので、コペンハーゲンには一人でいくことになった、と素っ気なくそれだけが書かれていた。電話ではそんなことひとことも言ってなかったのに、あとからポツンとそんなメールを送ってくるアンジェリカの心情が、たった2行の本文を包む空白の中に優しく漂っていた。返信を送っていいものかどうなのか、僕はしばらくの間躊躇して、結局は受け取ったままにしておいた。

 僕の知るかぎり、それが彼女にとって2度目の恋の終わりだった。最初の恋人とはかれこれ5年近くも付き合っていた。そして、もうその年の内には結婚、という段階になって、相手方の両親の強硬な反対にあって二人の関係にも終止符が打たれた。いや、アンジェリカの話では、決断を先延ばしにする彼の優柔不断さに見切りをつけて、彼女の方から一方的に終わらせたのだという。だから立ち直りも驚くほど早かった。親が反対していることなんて、最初からわかってることだったのに、とひと月後にはもう、屈託なくピッツェリアでの話題にしてしまう若さが、その頃の彼女にはあった。

 それから次の恋人、つまりアンドレアが現れるまでの2年間、アンジェリカはきっちりと仕事に専念し、夜は大学の夜間コースの聴講生になって英語も学んだ。事務の補助的な仕事から始まった彼女のキャリアは、小さな会社ではあったけど、社長の秘書的な役割を担うまでにのぼっていった。僕がアンジェリカと親しく言葉を交わすようになったのは、ちょうどこの時期のことだった。


☆☆

アンジェラさんの家で。いちばん右が、珍しくメガネをかけたアンジェリカ。いつだったか夕食によばれたとき。
  Madonna della Consolata教会のあるあたり、それがトリノの中で僕のいちばん好きな場所だ。教会の前にはビチェリンと呼ばれる、エスプレッソとチョコラータを混ぜた飲み物発祥の古いバールがあって、知人のロベルトさんから「このあたりは昔、トリノ随一治安が悪かった」と聞かされてもすぐには信じられないほどに、しっとりとした空気が流れている。

 何もすることのない日曜日の午後、ひとりでConsolata教会のあたりを歩く。何に疲れたわけでもないのに、でも、疲れてる、なんてことを自分の問題として意識しはじめたのはここ2、3年のことで、それに加えて最近の体調の悪さがますます自分を深い淵に連れ込んでいく。祈ろう、と思ったのはそれだからなのか。それだから自分は祈ろうと思ったのか。ビチェリンを飲みながら、そんなことを考えて、でも教会のまわりをウロウロ歩きまわっているうちに優しく日が暮れる。

 アンジェリカ、君はおぼえているだろうか。いつか君の家のそばの小さな教会にふたりで行った時に、無音の礼拝堂でひとり微動だにせず、じっと頭を垂れていた若い男のことを。僕はそのとき初めて「祈る姿」に触れて、生きる意味のほんのちいさなかけらが、その姿の中に見え隠れしていることに気づいたよ。そして、月に一度くらいだけどここに来る、と言った君が、同じようにここで何を祈るのか、教会の闇のなかでぼんやりと考えていた。

 最初の恋が終わったあと、アンジェリカは明らかに変わっていった。がむしゃらに仕事に専念しているようにみえたのは、もちろんそのことによって何かをふっきりたかったことの現れだったのかもしれないし、大学に通い始めたのも、それが彼女なりの新しい生活への決意表明のひとつだったのだろう。でも、そんなことはすべてあまりにもわかりやすくて、誰もが、そうなんだね、と頷けることで、だから、それはみんな嘘。心が壊れた、と冗談めかして、折にふれて何の脈略もなく笑ってそう言うときの、その言葉の中に新しいアンジェリカが生きていた。

 そうして季節はゆっくりと巡っていった。そのなかでアンジェリカは兄夫婦の離婚に直面し、何か要らないものを放り投げるように大学に行くこともやめた。剥がれたマニキュアを何日もそのままにしていたり、前触れもなく突然不機嫌になったり、ああ、なんか荒れてるっていう空気をまとって僕の前に現れることが多くなった。彼女が勤める自動車のエンブレム工房の、その地下の作業場の僕のささやかなデスクのまわりにやってきては、いつまでもグズグズしているなんて、およそ彼女らしくない振る舞いを見せたのもこの頃のことだ。

 小さな教会で、アンジェリカ、君は何を祈っていたのだろうか。


☆☆☆

アンジェリカから届いた絵葉書。アンデルセンの『人魚姫』像。暗いぜ、アンジェリカ。
 アンドレアはお父さんがドイツ人なの、とアンジェリカが新しい恋人の存在を僕に教えたのは2001年の冬のことだった。『アイスブルー』という、日本でいえばちょっと前のディスコのようなところで、友達から紹介されたという。その頃のアンジェリカは、週末の夜はほとんど『アイスブルー』に通い詰めていて、明け方までそこで踊っていた。トラム(路面電車)の運転手をしていて、とても優しい、って嬉しそうに、職場のデスクから僕を見上げて言ったときの顔は、ほんとに明るかった。

 恋人同士ならだれもが経験するあたりまえの起伏はあったにせよ、アンジェリカの心はいつしか落ち着き、爪のマニキュアは美しかった。2002年の夏には再婚した兄夫婦と日本にもやってきたし、出不精の僕を強引に誘って、いくつかの週末にはチンザノやチンクエ・テッレ、そしてオルタ湖にも出かけた。そして、これは僕をいちばん喜ばせたことだけど、夜の大学にもまた通い始めたのだった。仕事と私生活が軽快なリズムを奏でて、彼女にスキップを踏ませているような、そんな毎日が再び彼女にもやってきていた。

 別れた、というメールは、だからあまりにも唐突で、それは少しばかり僕を混乱させた。小さな積み木を丹念に、懸命に積み上げて、それを維持するための一途な努力を惜しまないアンジェリカが、崩れた積み木の前でどうであるか、写実的な絵が描けるほどに僕には想像できた。心が壊れた、っていう例の台詞を、アンジェリカはまた笑いながら、何の脈略もなくポツンと言って、汗だくになって踊っているのかもしれない、『アイスブルー』のタバコの煙の中で。

 それからしばらくして、アンジェリカからデンマークの切手の貼られた絵葉書が届いた。新しい店の住所が、彼女らしく几帳面に、きちんと罫線の上におさまるように書かれている。コペンハーゲンの消印の付いたその絵葉書は、アンデルセン童話の『人魚姫』の図柄で、裏面には彼女のメッセージが添えられていた。よくわからない、僕には意味の取れないメッセージだった。

 9月。僕はまたトリノに戻る。ピッツェリアでアンジェリカの吐息を聞き、何気なく彼女の横顔を盗み見ては、そこに柔らかく波打つ言葉を探すだろう。でも、それはいたずらに自分を疲弊させることで、おそらくはそんなことの積み重ねが、自分を言いようのない閉塞感の中に落としこんできたのかもしれない。だけど、それでも僕はまた、そうあり続ける自分を許し、不器用に、ぎこちなく、なんだかわからない僕自身のゆらぎと折り合いをつけていかなければならないだろう。

  だから、僕は祈る。祈りたい、と思う。Consolata教会で、今度こそきっと、自分のために祈りたいと思う。





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