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リッリ・ベルトーネ。70歳以上とはとても思えない。エレガントで妖艶で。写真は少
しボケてます。 |
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ストラトス30周年の式典は、ムゼオの中にあるコンベンション・ホールのようなところで始まった。会場には黄色のストラトスを俯瞰した大きなフォト・パネルが1枚。ほかにはこの式典がストラトス30周年を祝うものであることを知らせるなにものもなかった。拍子抜けしたと言えばまさにその通りで、これからここで何が始まるのか、僕は人の少ない最後列に近いシートに腰を下ろして式典の始まりを待っていた。
まもなくして、壇上にワークス・ストラトスのドライバーだったサンドロ・ムナーリが現れ、それに続いて《STRATOS 30ANNI .DOPO.》の著者アンドレア・クラーミ、それから故ベルトーネの夫人で現在のベルトーネを率いるリッリ・ベルトーネが並んだ。司会の席にはランチア・クラブの会長、ジョルジョ・フォルミーニ。
みなさん、今夜はようこそおいでくださいました。と司会者の声で始まったその夜の集まりは、アンドレア・クラーミの長い長い一人語りのあとも、ただただストラトスに関わった人たちの、同じように長い長い思い出話の連続に終始した。そこで語られる話のすべてを理解する語学力が自分にないのは残念だったけど、それがあったにせよ、その時点で僕はだらだらと続く昔話にかなり退屈してきていた。そしてそれはおそらく僕ひとりだけでは決してなかったはずだ。
そんな会場の雰囲気が一変したのは、ストラトスの製造に関わったという、ひとりの老メカニックの話が始まってしばらく経った頃だった。彼は「1969年の10月24日」と言って、それからしばらく無言だった。会場をゆっくりと見渡し、それから続けた。ランチアはフィアットの庇護の下に入りました。
僕にはその老メカニックの言葉の細部をすべて正確に捉えられたか、そんな自信はまったくない。ただ、彼が言っていたことはわかる。フィアット傘下に入った直後の、ストラトス開発当時のランチアのゼネラル・マネージャー、ウーゴ・ゴッバートの情熱がなければ、そしてその熱意に動かされたフィアットの総帥、故ジョバンニ・アニエッリの決断がなければ、「この502台の栄光のランチア」は決して生まれ得なかった、ということを淡々と、一語一語ゆっくりと、虚空を見つめるような目で、語りかけるように言葉を紡ぎ出していた。
質素で、素っ気ない会場は、その時、まるで教会のようだった。老メカニックの語りかけは続き、それに聞き入る誰もが、30年前のその時代を、それぞれに手繰り寄せている。リッリ・ベルトーネは泣いていた。そして老メカニックは最後に、なんの抑揚もつけず、それまでと同じ調子でGrazie
Gobbato, Grazie Agnelli, Grazie Bertone, Grazie Stratos.、と言って、その話を終わらせた。
ストラトスの生まれ故郷で開かれた記念式典としては、悲しいほどにショボくて、居眠りを誘うほどに平板で、なおかつ、それだからこそ心に残る。そうそう、この夜の最後に付け足しのように挨拶に立ったムゼオの館長は、ここが2005年いっぱいで閉鎖されることを明らかにした。笑っちゃうぜ。自動車の灯がどんどん消えてゆくトリノ。いや、こんな死んだような自動車博物館なんてそもそも要らないんだよ。歴史を繋ぐのはいつだって生きている人間で、だとしたらそれは、たとえばあの老メカニックの語りかけに勝るものはないだろう。
来年、2004年、ロベルトさん率いる小さなエンブレム工房も、創業70周年を迎える。トリノの自動車の世界の70年だ。ロベルトさん、ここに来てれば良かったよ、と僕はゆっくりと椅子から腰を上げた。もうすでにホールのほうでは賑やかなお喋りが始まっていた。
その夜、会場で配られた《STRATOS 30 ANNI.DOPO.》に、僕はリッリ・ベルトーネのサインをもらうことができた。写真も一緒に撮ってもらった。なんだかすがすがしくて、とてもいい気持だった。お喋りの花の咲くホールを横切るとき、びっくりしたような目のアリタリア・ストラトスがチラッと目に入った。向き直ってじっくり見た。30年後の今も、ストラトスのカタチはこの先を向いている。すごいな、と思った。
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