どこで買ったかということは、つまり、誰から買ったのかということだ。そんなことは口が裂けても言えるはずがなかった。たとえば、かつて手に入れたルカ・モンデゼモロのFerrari
F1チーム・ジャケット。これのそもそもの出所を僕が明かせば、F1という狭い世界の中では少なからずスキャンダルにはなるだろう。
それなりの人間が介在していなければ、こんなものは絶対に市場に出てくることはない。建前の部分ではあってはならないことだ。でも、本音のところでは、もちろんモンテゼモロ本人を含めて、誰もがそのジャケットの行く末を知っていたはずだ。あのシューマッハだってすべてを知りながらどれだけメカニックの薄給を補っていたことか。ただ、仮にこれが白日の下にニュースとして明らかになれば、スケープゴートにされるのは、その経緯に関わったラインの中で、もっとも弱い人間である。そして僕は複雑に絡み合うそのネットワークを通して、F1の世界の端っこにぶら下がっている。言えるわけがない。
それはともかく、僕は相手がどんなにいやがっても常に領収書を要求する。領収書を出したがらないのは、彼らがその収入を申告しないからだ。店を構えていない個人のコレクターやコレクターくずれなんてみんなこんなものだ。それでも貰う。どんな紙切れでもいいから、とにかく金銭の受け渡しがあったことを証明するものを要求する。
だから、カバンの中を調べられるのがいちばんマズイことだった。その日、少なくとも3枚の領収書がファイルの中に入っていた。中には明細書のようにきちんと品名をひとつずつ書いてあるものまである。これを見られるともっと追及されるだろう。この名前の人間は何処の誰なのか。若い警官と路肩のマーケットの店番のようにして黙ってそこに並びながら、僕は慇懃無礼氏の携帯電話を目で追う。頭の中では領収書がグルグル回る。
もうすっかり暗くなった。ゆうに1時間以上、そこに足止めをくらっていた。ようやく携帯電話をポケットにしまった慇懃無礼氏が、再び僕の目の前にやって来た。そしてすぐさま、まるで重大な疑惑でも発見したかのように厳かに、こちらの目を真っ直ぐに見ながら言うのだった。いちばん問題なのは、これを売った人間がこれを何処で手に入れたかということだ。このスクデリーアのユニフォーム、これを売ったのはFerrariの人間か?
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Ferrariのフラッグ以外はそのほとんどがマガイモノのFerrariもどき屋。誰が買うのかといつも思うけど、常に店を出している。継続は力なのか? |
携帯電話での長い長いオシャベリを終えて、これだった。この程度のことをまた言うために、長々と何を話していたのか。怒りが沸々とわきあがる。その思いを押し殺して、僕は言う。いや、違うと思います。メルカティーノで買ったんだから。聞いているのか、いないのか、慇懃無礼氏は腰を屈めてFerrariのピットシャツを手に取る。そして改めてそれを僕の目の前にかざした。その手が汚れていないのかどうか、瞬間的に彼の指を見る。
わからない。メルカティーノで買ったから……。何をどう訊かれようともこう答えるしかなかった。行っては戻り、戻っては行く。質問とそれへの答えが延々と繰り返される。Non
lo so. Ho comprato questi al mercatino.領収書のことも忘れて、意地になってこのセンテンスだけを返す。これだけを何度も言ってるわけだからどんどん流暢になる。まるでイタリア人みたい。
そして、ようやく――。慇懃無礼氏は大袈裟にため息をついてみせると、大きな手にあったピットシャツをポンッと投げて路肩の市に戻した。コイツ、投げやがった。キッと彼を見る。口元を少し歪めたその表情には、不完全燃焼した怒りに似たある種の感情が看て取れる。それから、OKと言った。OKと言って、シャツを投げたのと同じように、Vai
via(行け)と投げ捨てた。そして次の瞬間には背中を向けてPOLIZIA FINANZAとデカデカとペイントされたFIATプントの方に歩いていった。その後を若い警官が小走りに追いかける。
路肩に立ち尽くしてその背中を見送った。目の先で大小さまざまな形のテールライトの赤い光が揺れる。足元の露店はそのままだ。むき出しになったひとつひとつの品物を、またもう一度包み直さなければならない。エアキャップを留めていた梱包テープが用をなさなくなっていた。クソーッ!と思う。奥歯をかみ締めて飲み込もうとするこの飲み込めない感情をどうにも抑えきれず、ただただクソーッ!と思う。
それは安っぽい権力のカスのような看板を片時も下ろそうとしなかった慇懃無礼氏への怒りか、それとも、自分の仕事の象徴をゴミのように投げ捨てられたことへの悔しさか、いやいや、それとも、つまらないサービス精神なんかをチラチラさせて、卑しくへりくだっていた自分への愛想尽かしなのか。そんなすべてがなんだかグチャグチャに混ざり合って、むき出しの品物を包み直す自分の手の動きをじっと見ている。
思い出すのは10年前、Ferrari Club Italiaのエンブレムを初めて手に入れたときのことだ。嬉しかった。こんなものが手に入ったという興奮で手が震えた。スーツケースに入れるのさえ怖くて、ハンカチに包んでポケットに入れ東京への飛行機に乗った。いつもこの時のことを思い出す。それが出発で、それが今でも自分の仕事のすべてだ。
そのためには自分の受けた教育、身を置いてきた職業世界、そこで得たすべてを差し出してきた。リスクも負った。でも、その日、ラゲッジ・ルームに品物を戻す自分の手の動きに、以前のようには生気がないのに僕は気づいていた。魂の抜けた、やる気のない緩慢な動きだ。この目がじっとそれを見ていた。自分を鼓舞しなければならない。そうだ、わかってるよ、自分を鼓舞しなければならないんだ。景気はどう? 景気はどう? 景気はどう? バカだよな。いつまで笑ってればいいんだよ。ギリギリの意地にすがりつきながら僕は問う。もう情熱はないか? クソーッ!と思う。遠い友よ、おまえは元気でやっているか?
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